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路地ろぐ京都編(第3章)
『鰺庵の京都事情』へジャンプします 

路地ろぐ(京都編)

新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らず言いっぱなし巷談です。薀蓄もどきは飛ばして読んでください。京都の暮らしの横断面図。以下前ページに同じ。京都編第3章です。250626


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京都編第3章


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もし、このページまで読んでいただけたなら嬉しいことだ。

皆が見ている京都は当然今の京都である。少し情緒的に京都を探訪するとでも言えば少し歴史にも触れたような気がする。人並みに京都観光で社寺を回ったりすれば、京都の時空を遡ったような気がする。古都である京都が持っている魅力の一つである。知れば知るほど感動できるようになっているから不思議だ。だが、そこまでのことなら、桜を見、紅葉を見ても実際のところは木を見ているのに過ぎない。1200年以前の京都も京都であるし、今の京都も京都だ。1200年の間にも地面は掘ってまた埋められ、その上、壁もまた何層にも塗りこめられたものである。栄えて滅ぶ繰り返しの舞台、新しい歴史のために壊(こぼ)たれたものも多いはずだ。その舞台の幕が多いのも都たるの由縁なのだ。↓続く


知ってもらいたい都市(まち)

現に、市内いたるところで文化財調査をしている。だが、掘り出される遺構や遺物だけではない。無限に近い時空が塗りこめられている。少年期を京都で過ごした作家水上勉は「歴史とともに生きた血の袋」とも言っている。今見ている京都は航空写真を見るように、1200年の厚化粧をした都市(まち)である。お寺や神社の由緒書だけを見て京都を語るには歴史の層はあまりにも分厚すぎる。飾られ作られた由緒では、血は感じられない。京都検定に挑戦するのもいい。観光ガイドや人力車の人が教えてくれたことも京都なのだけど、一枚めくると違う色や違う顔が出てくる。めくらなくては見えないものもある。「京の土地は深い」(水上勉)とも言う。あなたがどの層の京都を見ようと勝手だが、何も知らないで満悦しているなら思っているほど幸福なことではない。と路地小生(ろじこ)は語りたい。京都編indexに戻る


京都の高等女学校事情〔女学校シリーズインデックス〕

明治32年(1899)の高等女学校令によって、女子の中等教育機関として制定された。京都の子女は、特に明治・大正・戦前の京都の女と言われる人たちを作っていった。初等教育では全国に先駆けた京都の町が同じように力を注いだのが女子教育であった。女紅場や女学校が京都市民に支持された。やがて京都市内における高等女学校は16校に上る。高等女学校の果たした役割は大きかったと思う。教育という言葉は、中学・高校にこそ相応しい言葉であると思う。学問と捉えると少し違うような気もする。研究でもないような気もする。単に技術や芸事でもないような気がする。人が人を教えるという大きな作用が必要である。路地ろぐ用語でいえばどこででも輝く女性を作る″ことである。そういう問いかけなくして女学校は成り立たない。↓続く


男女同権とは言わなかった時代の話である

成人になり人に尽くし・家庭に尽くし・家業に尽くし・社会に尽くしまた子や孫にも繋いでいける人を得ることにこそが目標である。女性だからと言って、暗くて狭いところに閉じ込めておいてそんなことが出来る筈はない。男性と同じように教養・技芸を身に着けてこそはじめてそういう人に成り得るのだ思う。それは男性が切望することであったとも思う。学ぶこと学べることに喜びと誇りを持ってはじめて身につくものである。都であったこその京都である。町衆や市民の切望でもあった。京都は大学の都市でもある。そのことにもそれなりの所以があるけれど、それより先に市民が教育と言うことを大事にできる歴史観や文化を持つ都市であったことを誇るべきものだと思う。以下は、掲載した高等女学校については京都市学校歴史博物館において26年12月から実施している企画展『京都の高等女学校と女学生』によって書いてます。学芸員の方に敬意を払います。あえて「路地ろぐ」にも参考引用させていただきました。↓続く/→*京都市学校歴史博物館


公立京都高等女学校事情

昭和期までの京都市内における高等女学校。高等女学校として古い順です。京都の女子教育は新英学校及女紅場の設立に始まると書いた。それが高等女学校になったのが府立第一高女(明治20年(1887)・府立鴨沂(おうき)高校に続く/以下同じ)/府立第二高女(明治37年(1904)・府立朱雀高校)/市立高女(明治41年(1908)・市立堀川高校)/府立桃山高女(大正9年(1918)・府立桃山高校)/市立第二高女(大正11年(1922)・閉校(二条中学に))/府立嵯峨野高女(昭和16年(1941)・府立嵯峨野高校)となる。↓続く//→*府立朱雀高校/→*市立堀川高校/→*府立桃山高校/→*府立嵯峨野朱雀高校


私立京都高等女学校事情

同志社女子中学校・高等学校

(写真註:明治9年(1876)旧柳原邸で始まった同志社女子塾、女紅場、女学校は発展するもキリスト教主義を貫くために高等女学校にはならなかった。今の同志社女子中学校・高等学校)

京都淑女高女(大正11年(1908)・閉校(跡地は京都市立紫野高校))/菊花高女(明治40年(1907)・閉校)/京都高女(明治40年(1907)・京都女子中学・高校)/精華高女(明治41年(1908)・精華女子中学・高校)/平安高女(大正4年(1915)・平安女学院中学・高校)/華頂実科高女(大正4年(1915)・華頂女子中学・高校)/家政高女(大正13年(1924)・京都文教中学・高校)/明徳高女(大正13年(1924)・京都明徳高校)/京都成安高女(昭和15年(1940)・京都産業大学付属中学・高校)/光華高女(昭和15年(1940)光華中学・高校)など10校。京都の名門女子の伝統校の名前です。が、現在の教育力や生徒の力の順番ではありません。京都編indexに戻る/→*同志社女子中学校・高等学校/→*京都精華学園/→*華頂女子中学高等学校/→*京都文教中学校・高等学校/→*京都明徳高等学校/→*京都産業大学付属高等学校/→*光華女子学園


松原通は五条大路


新玉津島神社前の松原通(烏丸松原付近)

京の五条大路は今の松原通。五条の橋も当然、少し北松原通にかかっていた。今の松原通は西は清水寺(清水道)から鴨川の松原橋を渡って西は西大路通まで概ね一本に通っている。大路の名残をかすかに残しているように見える。概ね一方通行で生活道路の様子だ。古往(むかし)松並木が有名で五条松原通といわれていたのが、秀吉の街づくりで二筋南に五条大橋がかけられ、松原通の名だけが残った。松原というのはこの通りに面した新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)の松並木だと聞いた。今は街角にひっそりした神社であるが、謂れは和歌の神様を都で祀っている。平安期の和歌の藤原俊成(1204没)の邸跡だったとある。鎌倉時代にはここに「和歌処(わかどころ)」がおかれた。和歌や俳句の聖地でもあるのがこの神社。烏丸通に向かいする俊成社(しゅんぜいしゃ)と合わせても本当にひっそりしすぎている。


五条通は国道1号線

今五条通としているの国道1号線と国道9号線。東から国道1号線が西進し堀川五条で国道9号線になり西進し老の坂を越えて丹波亀岡に通ず山陰道。1号線は烏丸五条から堀川五条まで行って南に曲がり大阪まで通ずる。厳密にいうと国道9号線の起点は烏丸五条交差点。従って五条通烏丸通、堀川通の間は1号線と9号線が通っていることになる。ともに元一級国道。→*清水寺京都編indexに戻る


清水寺と鳥辺野(とりべの)

五条通の突き当り大谷本廟、清水寺から今熊野(いまぐまの)のあたりは昔から鳥辺野(とりべの)と言われる。都市にとっての最大の問題は、実は屍(しかばね)の処理だ。特に昔のように疫病で数多くの人が亡くなったらなおさらだ。分かり易く言えば死体の捨て場だ。都の中には埋葬できなかった。貴人は火葬や土葬だろうが、庶民の多くは河原である。水がキレイにしてくれる。その鴨川を越えての死体捨て場、キレイに言えば葬送(そうそう)の地がだ。ここまで持ってきて木に吊るしたり埋めたりしたらしい。阿弥陀堂があったりした。清水寺の舞台から見はるかす谷もである。死人の処理を尊厳を持って行えないことは身内にとって最もつらいことだったはずである。現代人と違って仏が身近にいる時代だった。この地獄に救いの眼差しを向けるのが昔から清水寺の観音さん。今も大谷本廟の墓地も並ぶ。


野辺

調整中


鳥辺山(とりべやま)

鳥辺山

(写真註:清水寺から大谷本廟の墓地へ下りてきた私のいるところが鳥辺山になる/ここから見ると京都の町も墓石のように見える

鳥辺野(とりべの)または鳥戸野(とりべの)と言う。東山36峰阿弥陀ヶ峰(あみだがみね・標高196メートル)の麓(ふもと)である。高貴な人と庶人とは区別されていた。北の方鳥辺野といわれる方が庶人の地である。鳥戸野(とりべの)というのがおおむね南今熊野(いまぐまの)のあたりとなる。祇園で知り合った二人(祇園の遊女お染と江戸の旗本菊地半九郎)が心中に選んだのがこの葬送の地鳥辺山の懐(ふところ)ということ。鳥辺山(標高84メートル)とは阿弥陀が峰の懐。今は大谷本廟の墓地になっている。往時も人気のない始末に困らない地だった筈。人の魂は三途の川を渡って霊気となっていくが、肉体はただただ朽ちるだけのこと。四条河原の賑やかさや祇園の遊興の隣は鳥葬の地鳥辺野なのである。それゆえにか鳥辺山心中という創作芝居の舞台に選ばれた。その頃の人はそのことに違和感を感じなかったと思える。だが都市の膨張とともに葬送の地は狭められ鳥辺山などと言う地名も消えていく。京都編indexに戻る


清水寺のご本尊は千手観音

清水寺山門

(写真註:清水寺の山門。ここへ来れば路地小生(ろじこ)はいつも思い出す。市役所と対立して、しばらくの間「拝観謝絶」の看板が上がっていた。観光を盾にとった時があった。信仰とは何かを考えさせられた。着物を着た外国人で溢れる清水寺に来て今は観光とは何かをまた考えさせられる)

清水寺は平安遷都以前からのお寺。縁起によれば中学生も知っている平安期の坂上田村麻呂(801年征夷大将軍)の本願による。清水寺のご本尊は千手観音。観音とは観自在菩薩。あなたの気持ち(気根という=仏を見て理解できる力)に応じて33もの形体で現れることが出来ると言われる。特に清水の千手観音は合掌した両手の他に左右で40本もの手を持っているスーパー菩薩。それがそれぞれ25の様を救えるので40かける25で千の手になる。あなたを救うために千の手を用意してくれている。あとはあなたにそれがその手が見えるかどうかである。↓続く


坂上田村麻呂は大和の人

坂上田村麻呂の墓

(写真註:山科区、勧修(かんしゅう)小学校の北側にある坂上田村麻呂の墓、住宅地の中、静かな公園の様である。)

ある読者から示唆をいただいた。坂上田村麻呂は奈良時代、大和(高市郡?)の生まれ。平安遷都(794年)の時は36歳。平安京政権はその年始めて蝦夷の征伐を開始する。数年後に征夷大将軍。田村麻呂は奈良・長岡京・平安京と桓武天皇の激動の時代を武官として生き抜いてきた。54歳で生涯する。都を守る将軍として甲冑姿のまま埋葬された。征夷大将軍という名は以後長く部門の栄誉となる。この職名とこの時代こそいわゆる大和民族が大陸に習って本格的な中央集権の国家づくりを始めた時代ではないかと。田村麻呂が征夷大将軍に任命された年、最澄・空海が遣唐使船で大陸に渡る。清水寺は新しい都を守る象徴ではなかったのだろうかと。確かに清水寺は今も続いているとも言える。京都編indexに戻る



八坂の庚申(こうしん)堂

八坂の塔

(写真註:写真は八坂の塔。京都の町を代表する景観である。庚申堂の前のタバコ屋。軒からぶら下がっているのがくくりさるである。)

八坂の庚申堂

(写真註:八坂の金剛寺)

清水寺から三年坂を下ってくると二年坂と分かれ道の八坂通りに通じる。八坂の塔(法観寺)のそばを通る道。その八坂の塔の反対側にあるお寺、それが庚申堂(こうしんどう)だ。天台宗の寺で金剛寺(こんごうじ)という。奈良の奈良町へ行った人は知っていると思う。ここにもあのサルの人形がぶら下がっている。奈良町は庚申(こうしん)の町である。あのサル(みがわりのさるという)は庚申の神の使いである。京都ではここへ来ればあのサル(くくりのさるという)を見ることが出来る。現代人は庚申信仰はほとんど馴染みがないものになってしまった。が、こうして古都を散歩すると遭遇する。庚申(こうしん)とは何か?をしばらく語る。↓続く


青面金剛(しょうめんこんごう)

大津絵の正面金剛

(写真註:庚申(こうしん)とは60日に一度巡ってくる「干支」の庚申(かのえさる)の日、1年には6から7日ある訳でこの日を特別な日としている。)

この庚申信仰のご本尊にあたるのが青面金剛(しょうめんこんごう)。道教やら密教やら民間信仰やらが集合したご神体である。仏典には見当たらないご神体である。インドの神?仏教では日吉(ひえ)信仰と、また、神道とでは猿田彦神(さるたひこしん)と習合した。ともに猿に縁があり、そこからサルが庚申信仰の使いとなる。・・・と言うのが一般的解説である。と言うことでこの八坂の庚申堂は天台宗、寺名は金剛寺(こんごうじ)、ご本尊は青面金剛像である。大阪四天王寺の庚申堂と並んで日本三庚申と言われたりする。


三尸(さんし)の虫

三尸の神

(写真註:人の中には三尸(さんし)の神が潜(ひそ)むと言われる。上尸の虫は頭、中尸の虫は胸、下尸の虫は下半身の病を引き起こすとされる。仙人になったり寿命を延ばしたいと思ったらこの神(虫)を追い出さなければならないというのが道教の教えである。これを「三尸(さんし)の虫」という。)

この虫こそが美食や色情などの欲望に執着する気持ちを起こすという。日本に伝わって庚申の日にはこの日眠ると人間の爪先から体内を抜け出して、その人の罪悪を天帝(北極星)に告げに行くとする。天帝は鬼籍(きせき)を記す。そのため夜更かしし身を慎んだという。残念ながら性行為は特に禁忌である。眠らないための雑談ばかりで朝を迎える。室町時代に伝わって後、江戸時代には庶民にも夜更かし徹夜する風習(庚申待(こうしんまち)とか庚申講(こうしんこう)とか)が庚申信仰として広がった。三猿は戒めである。因みに、虫の知らせの虫はこの虫である。腹の虫も・・↓続く


六道の辻

六道珍皇寺

(写真註:六道珍皇寺/常は静かなお寺である)

生きることと死ぬことを繰り返すのが輪廻転生(りんねてんしょう)。その流転(るてん)する道が六道(ろくどう)。現実には生きることと死ぬことの分岐点でもある。それが都を出て鳥野辺(とりのべ)へ向かう道筋に置き換えこのあたりを六道の辻という。これから先は野辺(のべ)の地、冥土(めいど)、冥界(めいかい)である。ここまで来て、あるものは土に埋められ、打ち捨てられて貴賤にかかわらずいずれも土と水に戻っていく。松原通(昔の五条通)からこの葬送の地への入り口にあるのが六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)。この世と地獄の出入り口と・・。この寺の看板にある。→*六道珍皇寺


小野篁(おののたかむら)と閻魔大王(えんまだいおう)

閻魔大王

この寺の主役は小野篁(おののたかむら)と閻魔大王。小野篁は地獄の主である閻魔大王の裁きの補佐をしていたと言う。小野篁は平安時代前期の公卿。この寺を創建したともいわれる。公卿ながら反骨精神が強く、東国の小野流の武士の元祖。武蔵の横山党は篁の子孫を名乗っている。先祖を小野流武士の家の嫡男は野太(やた)、野太郎などと通称する。弥太、弥太郎、小弥太などという名前の元という。受け売りながら紹介しておきます。小野流は篁の流れ以外にも多くの家系があり、小野姓は特に全国的に多い。


閻魔大王の藪入り

この寺のもう一方の主役が閻魔大王(えんまだいおう)。閻魔大王は複雑な神様で、この世でもなしあの世でもなし、冥界(めいかい)を支配する神様である。日本の仏教では地蔵菩薩の化身とされる。地蔵菩薩は釋迦佛が入滅してから佛のいないこの世で佛の代わりを務められる菩薩である。地獄にも行き来しあちらでは閻魔大王と名乗る。何ともスーパーな佛である。佛というものは正にスーパーでなければならない象徴かもしれない。この閻魔さんの縁日は1月16日と7月16日、この日は「藪入り」とも言って、昔から奉公人が実家へ帰ることが許される日、丁稚奉公の佛が閻魔大王かも・・。↓続く


お精霊(しょうりょう)さん

当時、都という大都会の住民にとって死は毎日毎日、またどこへ行ってもありふれたことだったのだろう。尚更生きていることへの感謝の気持ちと実感が強かったと思う。そんなギリギリで生きてる人にとっても先祖や死者は出来ればきちっとおもてなしすべきものであり、迎えに来る気になった訳でもあろうか。お盆にはこの六道の辻まで死者を迎えにくる。迎えることは少し賑やかな様が、六道参りやお精霊(しょうりょう)さんにはふさわしい。死者への優しさだろう。↓続く


京都の盆

正月は年の初めの年中行事であるが、お盆とは、経典にある盂蘭盆会(うらぼんえ)のこと、仏事である。また、7月15日がその謂れの日と言うことになる。行事に関しては旧暦と新暦が都合で混在しているようなのが我が国の現在でもある。本来は当然のことながら旧暦のみの暮らしであったが、明治5年(1872)太陽暦の採用で少しながら混乱が生じた。そのまま新暦(太陽暦)で7月15日をお盆とするところもある。お盆に関してはここ京阪地区では月遅れ(8月15日・旧暦ではない))で行う。今は企業の夏休みや終戦記念日などの年中行事が密接に重なって帰省ラッシュになるくらいもほぼ全国的に月遅れのお盆が定着している。京都の野辺の地の入口にある六道珍皇寺や北の千本えんま堂(引接寺・いんじょうじ)ももちろん8月15日派である。↓続く


京都の盆の過ごし方

千本えんま堂

(写真註:千本閻魔(えんま)堂/千本鞍馬口下る、京都市上京区、高野山真言宗の寺。京都の3大葬送の地・蓮台野(れんだいの)の入り口にある。)

六道珍皇寺や千本えんま堂の迎え鐘は7日ぐらいから始まる。が、お盆と言えば13日から16日をいう。13日夕刻に先祖の霊を迎えて16日にその霊を送り返すという日程になる。14・15・16日と死者の霊と一緒に暮らす。この間、殺生や生臭いものを避け仏前に夏野菜を備えたりするのはその気持ちの表現である。お墓参りや僧侶を招いてお経をお願いしたりもする。お墓や家族が郷里にあればもちろん京都を留守にするのも京都人のお盆である。家族一緒に暮らしたい日本の年中行事であるのも京都も同じである。墓参りを名目にした家族の夏休みであればこそ、どこにいてもお盆が最も仏に近い時期となる。亡くなった人の初めてのお盆は初盆(はつぼん)とか新盆(しんぼん、またはにいぼん)とか言われる。故人を偲び灯りをともしお供えしてお盆を過ごすのが優しい過ごし方となる。↓続く


精霊(しょうりょう)送り

京都ではおしょうらい(お招霊)さんという発音の方が多い。いかに招いた霊であっても所詮一緒に長い間暮らすことは叶わず、16日にはまたあの世に送り返す訳であり、それを精霊送り(しょうりょうおくり)と言う。お供えと一緒に川に流したり、松明の火で現世の穢れを清める行事が行われる。各家庭・各町内やお寺や墓地でも精霊送りの行事が行われる。大量に供物を川に流すのは問題があり代わりに京都市ではお供えの処分もしてくれる。もちろん仏事であるのでお寺は全て引き受けてくれる。それを最後に〆として大がかりにしたのが「五山の送り火」である。送り火が見えるところではも一度各家庭のご精霊さんもまとめて送ってもらえる。旅行者にも都合のいい送り火である。これで盆が終わるのかと思いきや、京都の夏は24日の地蔵盆に向けての準備がはじまる。地蔵盆に続く//↓六斎念仏に続く/京都編indexに戻る


六斎念仏という言葉

現代の京都の年間行事は室町時代に始まっているものが多い。室町時代庶民のお盆の最後は河原で松明を投げて精霊を送っていた。やがてそれが応仁の乱後の室町時代、都の町衆の手によって洛東の浄土寺の如意が嶽の山腹に大の字を焚いた。後、妙法・鳥居形・舟形などと広がっていった。一方空也上人(平安時代中期903-972)によって広められた念仏踊りは、この時代庶民の力によって芸能化し念仏踊りとなり広まっていた。六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日の六斎日は仏陀の教えに従って仏の戒めを守って功徳を積む日とされる)に限らずお盆に盛んに演じられるようになる。現在京都の六斎念仏は重要無形文化財になっている。多くの保存団体の努力で続けられている。お盆の期間中に見たければ清水寺・壬生寺・千本えんま堂・水尾の円覚寺・西加茂の西方寺などで見ることが出来る。ご紹介しておきます。↓続く


念仏踊りと盆踊り

現代は舞踊(ぶよう)と言うけれど、元来舞(まい)と踊(おどり)とは違うものだと。踊りは集団的なもので、これは室町時代の風流踊りに見ることが出来る。時宗の衆が広めた踊り念仏もこの頃には宗教的な色合いなくし念仏踊りと言われるものになっていた。風流踊りも念仏踊りも踊りながら行き留まっては輪になってあらゆる楽器を使ってしばしば熱狂的に踊る。やがて盂蘭盆の時は盆踊りになって行く。この時代の特徴は踊りには誰もが参加しなければならないものであり、結果地域的な大きな集団となってそれぞれの華やかさを競うものであった。と言う。室町時代の芸能を研究する宮川女史によると、京都や京都近郊や堺などをの庶民の力はあらゆる面で伸びており幕府の禁圧にもかかわらず、華美に一層の芸能化が進む結果になったという。この芸能が徳川体制初期の阿国かぶきや後の歌舞伎につながっていく、ということ。京都編indexに戻る


幽霊飴(ゆうれいあめ)

落語に幽霊飴と言うのがある。日本全国にある飴買い幽霊伝説である。「にっぽん昔ばなし」にもある。元は中国の餅買い女であるという。死後の女が子を産むという話である。一文銭を持って6日間飴を買いに来る女があり、7日目は銭がない。女の衣装と交換に飴を上げた。死んだ女が幽霊になって墓の中で生まれた子に飴(水あめ)を上げて育てていたという話である。子は後に名のある高僧になる。落語でも採用されているが、上方落語では、『幽霊飴』という噺になっている。2代目桂文之助(ぶんのすけ)が噺に仕立てた。落語ではその墓は高台寺になっている。子育て飴であるから「子を大事(こをだいじ)」で高台寺という落ちのためだと思う。なお、文之助は引退(大正9・1920)後京都高台寺境内に甘酒茶屋(後の「文の助茶屋」)を経営した。京都編indexに戻る


六道の辻六原

幽霊飴本舗

(写真註:まさにここが六道の辻/幽霊飴の店の前が松原通りである)

六道の辻などと言っておぞましい限りであるが、他にも六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)や幽霊飴(ゆうれいあめ)本舗など話題も豊富である。東山区役所、東山警察署(移転)などもある。活気ある京都らしい商店街?ハッピー六原もあり、市民が快活に暮らす活気ある街であり、ほとんどの市民がお寺の歴史あるいわれなど無頓着に暮らしている。ましてや数百年も前の荒んだ時代のことなど・・。このあたり鴨川から約1キロメートル東、東山の裾でもあり川の氾濫の被害が少ない地形。街の古さを感じられる地形でもある。この地にはその他にもっと重大な歴史がある。→*六波羅蜜寺*幽霊飴本舗


空也上人

六波羅蜜寺

(写真註:空也上人)

空也上人は称名念仏の祖とされる。市井の高僧であった。
おそらくは延喜3年(903)頃の生まれになる。延喜3年は菅原道真が没した年であり、第60代醍醐天皇の時代である。一説では空也上人は醍醐天皇の落胤とも言われているが確証はない。20歳頃尾張で出家して空也と名乗る。念仏を唱えながら諸国を巡り、土木や社会事業に尽くした。
京都洛中において阿弥陀如来の称名念仏を勧め貴賤を問わずに多くの帰依者を得る。70歳ごろ東山の西光寺にて没すとある。
元来この地は水葬・風葬の地であり六道の辻と呼ばれるところでもあった。 なお、生涯をこの市井において疫病に苦しむ都の人々とともに、南無阿弥陀仏と念仏し・・・病魔を鎮めたとされる。 空也の西光寺は空也の没後に弟子中信により六波羅蜜寺と改められた。本尊十一面観音は空也の作と言われている。元々は天台系であるが現代は真言宗智山派に属す。↓続く


六波羅(ろくはら)政権

六波羅蜜寺

(写真註:空也上人の六波羅蜜寺)

この項、社会科の復習。鴨川の東、都の外ながら五条大路から七条大路に間に位置したのが六波羅と呼ばれる。平安時代はじめ(951年)市井(しせい)の聖(ひじり)空也上人(くうやしょうにん)が創建の寺、が六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)と呼ばれるようになった。その後院政期に伊勢平氏の棟梁平正盛・忠盛が居館を構えた。絶大な権勢を誇った清盛がその政権の拠点を西八条に移すまで平氏政権中心であり、六波羅蜜寺を囲むように平家武士団の屋敷群の地であった。平家政権の政庁を六波羅というわけである。↓続く


六波羅の栄華

平家滅亡後、六波羅を手に入れたのが源頼朝。頼朝の京都守護の北条時政が居館を構え、以後北条氏の鎌倉幕府の京都での拠点になる。平家政権と源氏政権の二度の武家政権の拠点となった地である。後鳥羽上皇の時代である。後鳥羽上皇は高倉天皇の第4皇子、平家を滅ぼした後白河上皇の孫にあたる。後白河の院政を次いだ。時は鎌倉幕府3代の将軍源実朝が鎌倉で暗殺された。頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉に幕府を開いて約30年の後、承久元年のことである。鎌倉幕府は頼朝の後室政子と政子の弟、北条義時が支配していた。4代将軍は九条家から迎えることとなり鎌倉幕府は執権政治を執ることになって落ち着いたかに見えながら、承久3年(1221)、後鳥羽上皇は討幕を決意、北条義時追討の院宣を下した。↓続く


承久の変

これが、承久の変(じょうきゅうのへん)もしくは承久の乱(じょうきゅうのらん)と言われる。後鳥羽上皇の討幕挙兵に多くの武士階級が動揺したが、北条政子が説く頼朝以来の恩顧に鎌倉の御家人たちが振るい上がり、全国の武士階級が京都の政権を攻めた事件である。この変による勝者は鎌倉幕府北条政権であり全国の武士階級であった。後鳥羽上皇は隠岐に流されるることになり、京都朝廷は完全に武士階級に屈した。院や公家の所有する多くの所領は没収され地頭に任じられた分け与えられ鎌倉幕府の支配をうけることになった。また、この時以来、近畿や西国も鎌倉体制の守護や地頭の支配となっていった。↓続く


土地所有の下剋上

元来武士というのは律令制の中では土地にしがみついていた農民である。それは在地の地主であったり、荘園の管理人であったりするが、一方で開拓農民でもあった。自らが管理する土地や開拓した土地を守るために武装していったものである。平氏も源氏も貴族であるが、既存の貴族と違うのは、一つに貴族に仕えた侍でもあり、他方で多くの開拓農民の権利を擁護したことである。土地の私有を保証する政権であった。承久の変は武士階級の完全なクーデターであり、以後の朝廷は武士政権の支配のもとに、武士階級の支配を保証する政権となったわけである。鎌倉幕府は幕府の法を朝廷や天下に公布出来るほどの支配権を握ったのである。↓続く


六波羅(ろくはら)の消滅

朝廷を監視するために置かれた政庁が六波羅である。北条氏一族から選ばれて六波羅にあった元平清盛の屋敷跡に駐在した。京都や西国を支配する政庁ともなった。西国の鎌倉政権であった。しかし、ほぼ100年後元弘3年(1333)後醍醐天皇の討幕運動に、六波羅は足利尊氏の挙兵により焼失。鎌倉幕府の消滅につながる。しかしながら、武家政治は主を変えただけで、足利氏が引き継いだ。室町幕府は洛中に政庁を構えたため、この地は以後、元の信仰の地となり、多くの寺院も建ち、参詣者を相手にした町となる。中学教科書風に五行でかいつまんで申し上げました。平安から鎌倉時代の終わりまで約250年武家政権の都だったわけです。京都にはこのような場所が多くある。政権の交代ごとに町が変わっていって、いつか普通の町並、路地になる。ということでどうしてもとばせない下りでした。


六波羅蜜(ろくはらみつ)

どうしてもとばせないものもう一つ。六波羅(ろくはら)の波羅(はら)は六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の波羅であり、摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみつ)の波羅。波羅蜜(はらみつ)とはこの世で生きて行う修行を言う。六の行いがありこれにより人も彼岸(ひがん)にいたるというもの。布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の六つをして六波羅蜜とする。この項は路地ろぐではここまで・・・・とします。各自勉強願います。京都編indexに戻る


阿弥陀ケ峰(あみだがみね)


JR東海道線/奥に見えるのが阿弥陀が峰

JR線が東向きに大津に向かって走って行って概ねすぐにトンネルに入る。このトンネル東山トンネルという。大正10年(1921)に開通、以後京都・山科から逢坂山(おおさかやま)をもくぐって大津(京都から約10キロ)と現在の線で結ばれることとなる。この山が東山36峰の一つ阿弥陀ケ峰である。山頂の標高は196メートル(今熊野阿弥陀ケ峯町)、歴史的にいうと京都と山科を結ぶ道(渋谷越(しぶたにごえ)や滑石越(すべりいしごえ))にあたるところから戦国時代には山城が築かれていたのが残っている。この峯の頂上が豊国廟(ほうこくびょう)、秀吉の遺言によりここに葬られた。ただ、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡により壮麗な廟は破壊された。京都編indexに戻る


今熊野から滑石越(すべりいしごえ)

左の道が滑石越えに続く

(写真註:左の道が滑石越えに続く)

今熊野(いまぐまの)から阿弥陀が峰の南麓を通って山科へ抜ける道が醍醐道(だいごみち)。または滑石越(すべりいしごえ)という。山科の大石神社に至る。一部離合(りごう)の困難な個所もあるが府道118号として山科への抜け道でもある。大石神社のあたりに元禄の時代赤穂浪士の大石内蔵助(くらのすけ)が一時の寓居があった。大石の寓居から京の遊郭に通うのはこの道が直線距離で一番近いことになるのだが、冬は凍てつき通う大石も滑ったから滑り石(すべりいし)との謂れも言われるくらいの道でもある。当時の道路事情を思えばこの話には少し無理があるような気がする。↓続く/→大石神社


仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

大石内蔵助

(写真註:仮名手本忠臣蔵祇園一力亭の場面)

大石が大望を秘しながら遊所に通った気持ちは聞きようはないが、山科から通った道は別の道(大岩街道)であり、また通ったのは四条の祗園ではなく伏見(墨染・すみぞめ)の橦木町(しゅもくちょう)遊郭だったと言われる。伏見へならばその道が最も近いことになる。東山を横断するのに最も平坦?な道である。鉄有開通の時の東海道線のルートでもある。また、今は名神高速が走っている。どちらもトンネルはないことでお分かりいただけるだろうか。京阪バスが勸修寺と深草をつないでいる。その時代だとすれば、駕代で1万円弱?、当時の大石の懐具合を考えらばそんなものかと思われる。大岩街道だとすると祇園とはミスマッチである。伏見だとすると滑り石越えはミスマッチと言うことになる。京都の人間ならわかる。当たり前のことだが、行く先、目的によって、京への道を使い分けていた、と考えている。表と裏があって、裏が本当だとすると世間に見せる表はカモフラージュであると言うのが鯵の見立てである。
閑話休題(それはさておき)風俗史から言えば、祇園の遊所が盛えだすのは元禄(げんろく)年間(1688-1704)の討ち入りから4,50年も後の頃であり、ちょうどその頃に赤穂浪士による主君の仇討事件(元禄15年・1702)に材をとった「仮名手本忠臣蔵」という芝居が始まることになる。その後また4、50年の後文化文政(1804-1830)の頃には嶋原をも上回る盛り場となる。この事件に材をっとった仮名手本忠臣蔵の芝居の大ヒットは、ちょうど祇園の遊廓としての地位を一挙に上げたということにもなる。わけである。
↓続く


大石という姓

山科の義士まつりのポスター

(写真註:12月に向かって山科の義士まつりのポスターが町に)

大石と言う姓は近江国栗太郡(くりたと読む、が昔は"くりもと"と言ってたようだ)にそのルーツがある。ここでは藤原秀郷(たわらのとうたふじわらのひでさと、と言う)の流れを汲むと言うのが主流である。はるかに時代を下って、その一流が秀吉によって大名になった浅野家に仕えた。とされるのが通説である。それからなお数代の時を経て、浅野の別家が常陸の笠間から播磨の国赤穂に移封された。この浅野家の城代を勤めるのが内蔵助の大石家である。幕府体制の赤穂はこの時浅野家の領地であったのが縁である。その後の赤穂は宝永年間から明治維新まで百数十年森家2万石が赤穂城主を勤めた、が、今も馴染みが浅い・・・これは余談。

山科西野山にある大石神社

(写真註:山科西野山にある大石神社・ここから少しのところが大石の住居跡がある)


赤穂を離れざるを得なくなった浪人大石は山科に寓居を構える。幕府の目の届きにくい地が都の近郊山科である。京都は幕府直轄支配の地であり、避けなければならない。禁裏の御料地的な土地が山科である。山科には多くの郷士の家があり、その中で近衛家の領地預かっていたのが西野山の郷士の進藤家である。進藤家は、同じく赤穂藩士であった進藤源四郎の本家である。浅野家取りつぶしの後、進藤の手引きでともに山科に移ったと思われる。赤穂の進藤源四郎は大石の血縁者でもある。しかも、元来大石一族は近衛家と密接な関係があったとされている。この関係が決めたことになるが、戦略的土地であったことを忘れてはならない。山科は都へ出るためと、東海道を下るためと二つの目的を持った地である。
ただ、大石の絶対の信頼のもとに山科隠棲の参謀を勤めてたはずの、それほどの進藤が最後に討ち入りの同盟から脱退した理由は分からない。進藤源四郎はそれから30年後、泉涌寺来迎院に葬られたとなっている。↓続く


都への道

院政時代の新熊野

(写真註:院政時代の新熊野(新熊野神社にて))

話を滑石越え(すべりいしごえ)に戻す。滑石街道ともいう。今は府道118号線今熊野から山科西野山まで約3.5キロ。見通しも悪いし離合も困難なところが多い。ただ、健脚であれば1時間ちょっとで越えられる。今でもこんな道である。山科西野山から東山を徒歩で越えるのには山道ながらこの滑石越えが最短である。今は阪神高速の十条トンネルがその下を抜けていることでもわかる。滑石越えは今の今熊野に下りてくるから、もっと都に近い。大石が都に用事があるとすればこの滑り石越えを通ったことは容易に想像できる。都に何の用事か?知る由もないが、険しいながら隠密に東山を越えたいとすればこの滑石越えの方が目立たないと言う最大の特徴があるからである。仮に芝居みたいに祇園や伏見の遊興して監視の目をくらますのならこんな道を通ったのでは意味がない。仕事の帰りに一杯飲んで羽目を外すサラリーマンではない。幕府の監視のもとにある身分だからだ。 ↓続く


今熊野への道

後白河法住寺陵

(写真註:後白河天皇法住寺陵)

今熊野(いまぐまの)と言うのは七条鴨川の東、院政時代後白河法皇の院政の地でもある。まさに平家物語の地である。法住寺殿の堂宇の一つとして平清盛は後白河法皇に三十三間堂を寄進したと言われる。平氏の権勢に陰りが見えた頃、院の御所法住寺殿は木曽の義仲の軍勢にいきなり焼き討ちされた。その法住寺殿である。法住寺は後白河の御陵を守ってきた寺院である。
山科西野山からそのまま今熊野へ出るのがこの道である。当時の法住寺は後白河陵と同じ意味である。が、三十三間堂も妙法院もある。また豊臣家の方広寺も隣接している。祈願か物見遊山かどちらでもいいことだけど、・・・事件に至る経過を知れば、また精神構造から考えれば後白河陵に参ったとも思われる。当時、参ると言うことは神仏の持つ神秘な力を貰って、大義を立てることにある。自らの欲望や勝敗にこだわると言うのは神仏の方が相手にしなかった?・・と鯵は思う。し、大石の行動には山鹿流(やまがりゅう)学問の素養が見え隠れする。↓続く


泉涌寺への道

泉涌寺塔頭来迎院

(写真註:泉涌寺塔頭来迎院)

大石内蔵助

(写真註:京都泉涌寺塔頭来迎院に残る内蔵助の肖像画。同士との密会に使ったとも・・)

新熊野(いまぐまの)にはもう一つ大石の足跡がある。皇室ゆかりの寺、泉涌寺(せんにゅうじ)である。元禄事件の時この泉涌寺の長老で塔頭(たっちゅう)である来迎院の住職が大石の親族であったとされる。大石はこの寺の檀家としての身元保証をしてもらったと推察される。実はそれが大事なことだった。大石は浪人なのである。が、浮浪と言う意味の浪人ではない。戸籍と言うようなものだったと考えるべきである。この泉涌寺は皇室の菩提寺の立場にあって俗世間と一線を隔している。そもそもここは鳥辺野(とりべの)と言いて都の葬送の地でもある。森と墓地に囲まれた鬱蒼の地でもある。隠れるのにはいいし、逃げ込むにもいい地である。この寺の目立たない塔頭で密議を交わしたとしても十分にあり得ることである。滑石越えからちょっと脇へ入れば、まっすぐ来迎院の前に通じていることを知るべしである。
芝居で大石が人前で遊興にふけるのは見せ場である。が、カモフラージュだとすれば隠密行動のカモフラージュである。この地に本当の用事があったとすれば、駕籠も使えない。滑り石越えと言う山道は大石にとってけもの道のような隠密な道であったのではないか。それは幕府と言う強大な敵をあざ抜くための道でもあった筈である。

法住寺の義士会

(写真註:法住寺の義士会)

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御寺泉涌寺

考明天皇御陵

(写真註:考明天皇後月輪東山陵

泉わく地の寺、で“せんゆうじ”だと思っていたら、”せんにゅうじ”と発音するようだ。戦友ではなく潜入と言うことだ。発音の都合だと思うのだけど、はっきりそういわれると少し戸惑う。
真言宗の寺、京都皇室との関係が深いことから“御寺”と呼ばれたりする。室町時代から帝の葬儀が仏式で行われた。特に江戸期に入ってはほとんどの帝や皇后の葬儀がこの寺で行われ、帝王御陵がこの寺にある。 121代考明帝は幕末の帝である。外国船が近海に出没しだした頃に即位し、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と、この元号の多さだけでも多難を示している。考明帝は在位21年で、35歳で崩御した。葬儀はこの泉涌寺で行われたが、御陵は古式王政に改め、今まで歴代の石塔から墳丘上の円墳に埋葬された。泉涌寺は考明帝の御陵でもある。明治以降は仏式での葬儀はなく、これが皇室最後の仏式での葬儀になった訳である。考明帝の陵墓は後月輪東山陵(のちのつきのわひがしやまのみささぎ、と読む)である。生涯を京都でお過ごしになった帝でもある。 ↓続く


天然記念物の道

今熊野から滑石街道を少し登ったところに浄土宗西山禅林寺派の正法寺(東山区今熊野南日吉町)というのがある。そう言っても観光寺院ではない。地図では見つけやすい。丁度新幹線の東山トンネルの真上にある。その境内に天然記念物の一つがある。京都市内には(国指定)天然記念物が6箇所あるがその一つだ。ただ、他と違って少々難解だ。「東山洪積世植物遺体包含層(ひがしやまこうせきせいいたいほうがんそう)」と言う。氷河期の地層の中に既に絶滅した植物が見られるということだ。学術的な価値が高いため天然記念物に指定された。このお寺の境内にあることは明確であるがお寺のを探し回っても見つけられなかった。観光資源ではないからだ。素人としてはそれ以上興味のないものである。ただ、路地ろぐ筆者の小生としてはそれは山城湖の原始の姿であり、氷河期の昔浅海であったことをに興味がある。京都の東山がである。この場所今は海抜67メーターになるということ。↓続く


鳥戸野陵(とりべのりょう)


一条天皇皇后定子鳥戸野陵

後白河法皇ゆかりの新熊野(いまぐまの)神社の前から東へ、前段の醍醐道の一本南の道を今熊野観音寺への道を行くと鳥戸野陵(とりべのりょう)の参道の入り口に達す。このあたりは貴族の葬送の地でもある。その中でこの鳥戸野陵は宮内庁が管理する一条天皇(66代)皇后定子(ていし・藤原定子977-1001)の陵である。「枕草紙」の清少納言は皇后定子に侍る女房の一人である。遠いようで近いのは男女の仲″は清少納言。訪れる人も少ない道をなお進めば今熊野観音寺(いまぐまのかんのんじ・西国十五番)に達する。葬送の地も最後は泉涌寺(せんにゅうじ)に至る。泉涌寺は皇室の菩提寺としての位置づけにある。寺内に御陵(月輪陵(つきのわりょう))を抱える御寺(みてら)でもある。↓続く/→新熊野神社/→今熊野観音寺/→泉涌寺


清少納言と紫式部

清少納言が仕えていた藤原の定子は関白藤原道隆(953-995)の娘。清少納言は清原氏の出、一度結婚に失敗したがその学才により一条天皇の中宮定子に仕えた。学才はあったがそれほど裕福な生活は送ってきていなかったとも言われる。藤原道隆は藤原氏北家の長者であったが、やがて、大酒が原因(?)で栄華に陰りが出る。道隆の弟が道長(966-1028)である。藤原道長の娘が彰子(しょうし・上東門院(じょうとうもんいん・988-1074)、この彰子に仕えたのが紫式部・和泉式部などなどの才媛(さいえん)、文芸サロンの中心となっていく。紫式部は藤原氏北家につながる生まれであった。夫と死別後彰子に仕えた。一条天皇の寵は彰子に移っていくとともに藤原北家の栄華は道長へと移っていく。道長は御堂関白とも言われる。彰子は弟頼通(992-1074)ともに摂関政治の最大の花を咲かす訳である。彰子・紫式部もこの下りでの歴史の勝者である。「源氏物語」は勝者の文学である。そういう意味でこの時代を反映している。↓続く


皇后定子の悲劇

困ったことに紫式部の生年が文献では見当たらない。だが、皇后や中宮の家庭教師も兼ねているわけであり、それほど若い筈はない。定子と彰子は11歳違いの従妹(いこと)である。定子の父道隆と彰子の父道長は13歳の歳の差であった。だが道隆は42歳で亡くなった。大酒のせいであった?。道隆の嫡男(伊周・これちか)は20才そこそこ。藤原(北家)はの実権は30歳代になった道隆の末弟道長に移っていく。そこには花山院(かざんいん)事件があり、伊周を大宰府に流す。関白であった父を失った定子はそれでも皇女・第一皇子(敦康親王)を産むが、その時には一条天皇の寵が氏の長者となった道長の娘彰子に移っていくのである。彰子も11歳で中宮(皇后に同じ)となる。聡明であったと伝えられるが、それからまもなくお産で皇后定子は23歳の若さで崩御された。というのが一条天皇皇后定子の歴史に残る悲劇である。↓続く


敦康親王(あつやすしんのう)

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残念ながら、清少納言はそのあたりのことを書き記していない。道隆の家の悲劇は定子の悲劇である。定子の悲劇は定子の皇子・敦康親王の悲劇である。わずか2歳で母を失った。一時彰子に養育が託された。しかし、道長は彰子に誕生した皇子(後一条天皇)を皇太子に上げた。親王は人柄がよく父一条帝にも彰子にも愛されたという。それなのにである・・。敦康親王はにわかに発病、出家の後20歳で世を去った。清少納言の「枕草紙」の文学的価値は高い。「それなのに・・」というのは文学的動機としては最大のものである。美少女皇后定子のことを清少納言はもっと書くべきであったと思う。あったのかもしれない。だが、敦康親王物語まで書けば生々しい。往時の和歌や文学というものは宮廷の中のサロンで作られるものであるというなら仕方がないのかもしれない。京都編indexに戻る


五条口は伏見街道

秀吉の街づくりで築いたお土居七口の一つが五条口。伏見街道につながる。伏見街道は京と新しい町伏見をつなぐ街道として整備された。今の五条口、五条通を起点として南へ伸びる道である。本町1丁目から東福寺の前を通って墨染まで道なり、京阪電車が疎水をはさんで並行して進む。京阪電車は粟田口、五条口から伏見の町・大坂天満橋までいわゆる京都・大坂街道に沿って走る電車。五条口から大坂までの最短距離(*京橋駅まで44.7キロメートル)を走っていることになる。→*京阪電車

大正4年に五条から三条まで開通した京阪電車

伏見街道は大坂・奈良へ

秀吉は伏見に入るとともに伏見から奈良へ至る街道も整備した。したがって、上の伏見街道も大和街道ともよばれていた。江戸時代には京都・伏見間に竹田街道が整備され、以後こちらが奈良街道といわれるようになったらしい。今の奈良街道は国道24号線。国道24号線は京都下京区の烏丸五条交差点を起点に奈良市内を経て和歌山市の県庁前まで。193キロメートルある。


方広寺門前本町通

正面通

(写真註:真夏の昼の正面通。本町通から東を望む。現在の正面通の突当りは鳥居と豊国神社の本殿になっている。鳥居の奥左(北)が方広寺である) )

この伏見街道、東山区内では本町通"という。北行き一方通行の道ながらビッグな名前をもらっている。当時洛外ながら伏見街道であったからか?五条通の当たる北端が本町1丁目、七条の交差点が6丁目、本町館がある塩小路通が8丁目、JR線をくぐるのが9丁目、東福寺の正面が18丁目というふうに22丁目まである。途中本町5丁目と6丁目の境を東に行くのが正面通。これまたビッグな名前と思えば、正面は当時大仏のあった方広寺の正面のこと。この道は大仏の前を通る。京都と伏見の二大都市を往来する限り秀吉の威勢を見せ付けられる仕組みか。もちろん京都市内で本町通といえばここだけで本町の地名もここだけのこと。↓続く/→*東福寺


正面通(しょうめんどおり)は大仏正面

現在の豊国神社

(写真註:豊国神社の本殿。唐門は重要文化財。伏見城の遺構である。) )

正面通は東西の通、七条通(しちじょうとおり)の二筋ほど北へ。河原町正面(かわらまちしょうめん)というバス停がある(南行のバス停は六条通より北へ、随分離れているので注意)。例によって京都の街の河原町通と正面通の交わったところです。正面通の正面とは何の正面か?と言うと、豊臣時代に方広寺(方広寺は現存する)にあった大仏の正面と言う意味である。と言ったが、今は豊国神社の鳥居が立っている。正面通は豊国神社の前からスタートする。鳥居の前は参道然として広い通りである。正面通と言うのは分かりにくい街路でもある。鴨川に架かる正面橋(しょうめんばし)を渡って西に千本通(せんぼんとおり)に至る。正面橋は鴨川にかかる橋としては五条通(国道1号線)の南に架かる。↓続く


大仏

この大仏と言うのが現存していれば話が早いわけであるが、残念ながら豊臣家に似て数奇な運命を辿る。文禄4年(1593)三十三間堂の北、大和大路に西を向いて大仏殿が完成。大仏は木造漆喰(しっくい)ながら高さ19m、奈良の大仏より大きかったが、不幸にも完成の翌年の慶長伏見大地震により倒壊した。大仏再興できぬ間に秀吉が没した。関ヶ原の役(1600)により徳川の覇権が成立したのちも慶長7年(1602)秀頼と豊臣家は銅製の大仏に着手するが、流し込む銅で大仏も大仏殿も焼失。慶長17年(1608)再度再建に着手。ほぼ完成まじかで、徳川家の不興を買う。ご存知の方広寺鐘銘事件(慶長16年・1614)である。大大名豊臣家の財を傾け終わった時期を待って、豊臣家の始末にかかったわけである。↓続く


寛永通宝

この大仏が徳川体制を支えることになる。豊臣家の銅は全て徳川の銅になった。貨幣経済は金・銀・銅の経済であるが、今日流通しているコインと同じである。日常は銅銭で暮らしている。銅銭は中国から輸入した貨幣では不足する。これを寛永通宝という徳川貨幣にしたわけである。家光の時代だという。250年間江戸時代と言われる期間を庶民の経済を支えた。権力の証になんぼ大仏作っても役に立たなかったけど一分銭(いちもんせん)にしたら250年もったということになる。それ以上に豊臣の蓄えた金と銀はそっくり体制に引き継がれていくことになる。それが経済というものであり、それが政治だと今では分かる。


大仏始末

大仏前交番

(写真註:大仏前交番(七条大和大路)にあった界隈案内図。現在地の表示が交番である。分かりやすく北を上にしました。豊国神社から渉成園(しょうせいえん)・枳殻邸(きこくていともいう)につながる細い道が正面通。)

今は妙法院や智積院や京都国立博物館などもあるがある大和大路七条から東・北のこの一帯の地は秀吉(豊国大明神)や豊臣家の菩提寺であり聖地であった。豊臣家としては秀吉の発願になる大仏を完成させたかった訳であるが、豊臣家滅んでも大仏と鐘が残ることになった。が、大仏は地震で倒壊。徳川政権は豊国大明神の神号をはく奪した後、天台宗の妙法院などに土地を与え聖地の分断を図ってきた。前政権の聖地は破壊しなければならない。それが、この地の宿命であり正面通の不幸の始まりである。それでも大仏は何度か再建を試みられ、天保時代の大仏も昭和48年(1973)火災で焼失するまであった。だから、今でも大仏と言う。↓続く


方広寺の鐘

(写真註:名鐘の写真。白く囲ったところに件の名が刻まれている。)

鐘は音色が大事である。銘文は文学である。文学であればなんとでも難癖(なんくせ)はつけられる。日本の宗教は国家や権力の後ろ盾がなければ実は宗派を維持できない。当時僧だけが学者なのである。学識経験者として物を言えばいいのなら文学論を語るだけでいい。結局多くの僧が権力に阿(おもね)って競い合って学識を披露することはいつの世でもあり得ることだ。意識しないでも陰謀に加担できる。民主主義は何が権力か分からないこともあるが、所詮現代も同じこと。民意と言う権力もある。『天下泰平、君臣豊楽』の銘文はただの名文である。それを事件に出来たのは政治である。政治とは陰謀である。それは秀吉に学んだことだった。↓続く


鐘は音色が大事である

しかもこの鐘銘事件そのものは家康の寿命と大きな関係がある。この時初代将軍は隠居して大御所家康73才、大坂の陣(1614・1615)は家康73才・74才。その後慶長19年(1616)、豊臣家を滅ぼす生涯の大事業を果たしてすぐの75才の寿命であった。歴史の中でも英雄譚(えいゆうたん)は生まれた時と寿命によって決まる。信長でも秀吉でもなかった家康は、信長の死後と秀吉の死後と言う大きな人生経験に学んだことだけが違っていた。それが徳川家と言う家が200年以上15代に渡って続いたことになる。家康の人物像はほとんど晩年の特に豊臣家との陰湿な戦いに現れたことになる。徳川幕府は京都も豊臣家も完全に無視した。一つだけ残したのがこの鐘である。今は豊臣家が滅んで400年である。豊臣家の滅亡に関係なく、方広寺の鐘は名鐘(音色)ゆえに銘文を削られることなく重要文化財として今も残っている。残したというべきだろう。なおまた、そんなことに関係なく2016年は家康没後400年でもある。そんな行事もあることだろう。↓続く


正面通を西へ

山内任天堂

(写真註:看板によると丸福かるた・NAPOLEONトランプの製造元「山内任天堂」とある。ここが京都の企業、「任天堂(にんてんどう)」の発祥の地であるということだ。)

豊国神社の鳥居を背にして西へ進むと鴨川を渡る。この通りには正面橋と言う橋が架かっている。正面橋を渡って暫く進むと、右手(北側)に石造りのモダンな建物が見えてくる。初代の山内氏がこの地において花札やトランプの製造を始めた(明治22年(1889))。戦後滑ロ福に山内(山内博)氏が社長に、後、社名を任天堂に変える。平成14年(2002)から岩田(岩田聡)氏が社長に、今は本社は南区上鳥羽鉾立町にある。資本金100億円の大企業である。だが、今年平成27年(2015)任天堂をご存知の大会社にした岩田社長が病死。暫く社長空席であったが、9月に常務取締役の君島氏(65)が昇格、5代目社長になった。ゲームや株にも興味がないが、任天堂の行く先は?↓続く。京都編indexに戻る

任天堂

(写真註:十条烏丸の任天堂本社。)


正面通を西へ河原町正面

正面通(極めて細い)を高瀬川を渡って細い道をさらに西に進むと、河原町通りに出る。そこが河原町正面である。正面通は早くもここで行き詰る。それが渉成園(しょうせいえん・枳殻邸(きこくてい)とも言う)、東本願寺の庭園である。だからと言って、入り口があるのではない。渉成園の裏塀(うらべい)にあたる。正面どおりは大仏門前から本願寺(いわゆる西本願寺・(註)天正11年(1583)秀吉から寺地を与えられる)の門を結ぶ道であった。その途中にこの渉成園と、渉成園の本家・いわゆる東本願寺(元は本願寺と言った、今は真宗本廟が正式な名称(註)関ヶ原の戦いの後慶長7年(1602)家康から寺地を与えらる)が割り込む形で徳川体制になって建てられたわけである。かくして正面通は京のメインストリートになり損ねた。京都編indexに戻る


正面通の行き着くところ

島原大門

(写真註:今も普通の町屋のなかに屹立と建っている。)

正面通を西に進むと東本願寺にあたる。東本願寺を迂回してまだ西へ進むと西本願寺に達する。このことは前に書いた。西本願寺の西にも正面通は続く。やがて、山陰本線と京都中央市場になるが、山陰本線でほぼ突き当りになる。おそらくはこのあたりまでだったのだろう。何故ならそこが平安京の中心街路、朱雀大路(すざくおおじ)の名残である千本通(せんぼん)にあたる。正面通は秀吉の都市計画、その都市計画の西の端、お土居にぶつかるからだ。ただ、そのあたりから丹波街道につながる。秀吉の時代の都市計画で言えば京の七口の一つ「丹波口」である。その丹波口の内側あったのが島原の遊郭である。↓続く


島原(しまばら)

このあたりの住居表示は「西新屋敷(にししんやしき)」という。島原という地名はない。400年前に大坂夏の陣が終わって豊臣家が滅亡し、徳川体制が固まった。もちろん京都も徳川の領地である。それから22年後九州島原の乱があった。島原城にこもった一揆を鎮圧するのに徳川幕藩体制を総動員するほどの騒動だった。それから数年寛永18年(1641)、幕府はそれまで六条室町にあった傾城(けいせい)町を西本願寺の西に移した。市中、御土居(当時はもはや取り壊たれていたと思う)の中とは言え、このあたりは朱雀野(すざくの・平安京の朱雀大路のことである)と呼ぶような田園の中、都の外枠ながらちょうど丹波街道へつながる位置にあった。西新屋敷傾城町(にししんやしきけいせいちょう)とした。島原の乱の騒動ににてあわただしい、しかも厳めしい武家屋敷風の大門を持った遊郭であることから誰とはなく島原ということになったというのが定説である。↓続く。


島原(しまばら)2

都市では遊びごとが必要である。特に男の遊びごとに売笑(ばいしょう)はつきものである。言いかえれば売笑婦(ばいしょうふ)は都市でしか生きていけない。貧しさが原点だから・・何時の世にも絶対に無くならない。平安時代は京都が最も平和な時代でその時から職業化してきた。様々な形をとりながら芸能で生きる階層が形成されていた。都は大消費地でありその階層の中でも遊女もまた職業として成り立っていた。室町期も織田・豊臣の時代も権力の許しや黙認を得ていくつかの傾城町があった。権力交代によって都の外郭を回るように何度も移転せられながら、その中の最大のものが東西の本願寺に挟(はさ)まれた六条室町にあった。徳川体制の京都の町づくり、あるいは経済対策上の施策とし唯一官許としての保護を得てきた。南西の外郭丹波口での公に商売が許されたのそれが島原であった。↓続く



格式の遊郭

島原の置屋輪違屋

(写真註:明治以前は置屋である。多くの遊女を預かっていた。浅田次郎の小説「輪違屋糸里」に詳しい。明治以降はお茶屋も兼ねている(現在進行形))

ということで、島原の格式は高かった。作家M氏は、著作の中で格式の高い島原の太夫であっても女性残酷物語でしかないという。客が有名文化人であっても客の消費のための営業戦略に過ぎない。太夫は商品としても価値が高い。その価値とは教養である。そのために遊郭は立派な社交場だと主張する人もあるが、それこそ設備投資の営業戦略に過ぎない??、そうなのかどうなのかは分からない。しかし、言えることは島原のこの戦略はご一新(明治維新)の明治に入って、なおかつ売春防止法が出来るそれよりもずっと早く斜陽に入っていたと。明治・大正・昭和を迎えて遊郭は全盛状態から全滅状態へ移ったけれど、街中の五花街だけが雰囲気を残している。それはいいけど、遊郭はなくなったわけであるが売笑(ばいしょう)が無くなったわけではない。売笑に格式は要らないという結果になったわけであろうか。京都編indexに戻る


お茶屋

宮川町

(写真註:五花街の一つ宮川町は三ツ輪の紋。お茶屋さんの提灯です。)

茶屋とは茶店などと同じで休憩所のことであった。その中で飲食や遊興が出来る家が出てきた。これを江戸時代には出会茶屋(であいちゃや)とか待合茶屋(まちあいちゃや)とか言った。遊里(ゆうり)にあるあるのは引手茶屋(ひきてちゃや)とか言うのが時代劇に時々登場する。客が妓楼(ぎろう)に上がるまでの間、飲食や遊興を提供した。これが待合(まちあい)である。現代は遊郭(ゆうかく)はない。花街(かがい)で芸舞妓(げいまいこ)を呼ぶのはこの待合に限られる。京都ではこの待合のことをお茶屋″という。お茶屋は料理屋でないので仕出しの料理が提供される。貸席業である。芸者と料亭などで飲食したい場合もこのお茶屋を通さねばならない。お茶屋が芸者のいる世界・花街を商業として回しているのである。時代が前後するが島原などの格式のある遊郭で上級の遊女(天神とか)をよぶのは揚屋(あげや)と言った。揚屋は大きな宴席にも耐えるように大きな台所を持った。この場合はお茶屋と料亭を兼ねたことになる。明治の初めまで続いた。京都編indexに戻る


旧丹波口駅

島原解説図:下図は大正13年発行の地図。京都競馬場はそのころは船井郡の須知町(京丹波町)にあり、島原はその時でも町はずれであった。

正面通(しょうめんどおり)の行き着くところは山陰街道の丹波口と書いた。実は明治に入っては鉄道の「丹波口駅」でもあった。元々は京都鉄道の二条〜京都間の駅であった。明治40年に京都鉄道が国有化された。明治の間は島原遊郭と島原競馬場(京都競馬場)の前の駅であった。小説家水上勉(みなかみつとむ)の「京都遍歴」に初めて京都に出て来た時、田舎の和尚さんに叔父さんに連れられてこの丹波口駅で降りたと書いている。丹波口駅は極めて粗末な駅で駅前広場もなかった。駅前から東へ市電の通る大宮通に出るにはいきなり続く両側妓楼の客引きの中を抜けた記憶を書いている。千鳥格子に化粧ガラスは妓楼の作りである。娼妓は首に包帯を巻いていたという。昭和の初めの頃の風景である。格式の遊郭としては当時は既に相当に寂(さび)れていたとは思う。大正8年の生まれの作家10歳の頃の記憶である。お寺に入るために京都に来た作家にとっては現実の都会の明かりだったかもしれない。それもその筈である。後にも先にも国鉄の駅前通りが遊郭であるのはなかった。とも書いている。↓続く


現丹波口駅

昭和になってはの間は京都市中央市場(昭和2年の開設)の前の駅であった。昭和51年(1976)山陰線の高架工事の完成で丹波口駅は500メートルも北の五条通りまで移動した。駅前の機能と駅前のもたらすはずの効果も全て正面通(あるいは七条通りから)から五条通(国道9号線)に移ってしまった。国道9号線は新しい山陰道である。だから、丹波口という名称はそのまま引き継がれた。かくして正面通は行き止りになった。今は京都の路地の一つである。一方京都競馬場のあとは、昭和・平成になって開発が進んだ。京都市の中央卸売り市場も来たし、一時(いっとき)球形のガスタンクが林立していたが、今は、京都リサーチパークというビジネス街が作られた。・・という話。↓続く


丹波口に新駅

ところが、平成20年代(2015)になって、JRは現在の丹波口駅(たんばぐちえき)から約800メートル京都駅寄りに高架新駅を作ると発表した。蒸気機関車館や梅小路公園もある。今度、鉄道博物館が開業するということが動機で京都市と話し合ったみたいである。500メートル北へ移動した丹波口駅が800メートルまた南に新丹波口駅が出来るということになる。既設高架鉄道に高架駅を新設することになるので工事としては難しい、費用もかかる。七条通りは往古(むかし)から山陰街道に繋がっていた。このあたりこそが、歴史的な「丹波口」に近い。しかし今更、「丹波口」という駅名にするわけにはいかんやろうね。それならいっそうのこと昔の名前で出ていますと、「島原」駅はどうだろうかね・・。↓続く


新駅名

新駅の駅名はその町の発展を左右する。駅名の取り合いになる、しかし決めるのはJRである。もともと丹波口も島原も謂れが難しい。歴史を戻れば平安京の朱雀通り、七条には都の迎賓館である・鴻臚館(こうろかん)などが営まれた土地。平安時代は平家一門の館もあった。「朱雀(すざく)」では振りかぶりすぎ。現在の場所的には「千本通七条」、千本通りとしてはこのあたり道はか細すぎる。通り名の「七条」では京阪電車駅に紛らわしい。「大操車場跡」のその跡地の公園の名を取って梅小路、世間の通り名としては無難かもしれない。↓続く


梅小路(うめこうじ)

梅小路(うめがこうじ)というのは平安京時代の名でもある。八条通の一つ北の筋(小路)を梅小路(うめがこうじ) その北が八条坊門通、その北が塩小路、七条となる。そんなことから江戸期には梅小路村・明治には七条村梅小路と言っていたが、国鉄はここに東海道線梅小路貨物駅を作った。国鉄が膨大な土地を取得してこの地区の発展を長く阻害してきたことを思い起させる危険をはらんではいるが、JRが決めるのだから、JR内では「梅小路(うめこうじ)」が一番通りそうな気がする。京都編indexに戻る


山陰街道

丹波口(たんばぐち)は七条口(しちじょうぐち)とも言う。古名で言えば朱雀村(すざくむら)に入る。ここから西へ西七条・桂川を渡ったら桂離宮がある。秀吉の猶子(ゆうし)智仁親王の別荘である。明治になって離宮となった。桂をから樫原(かたぎはら)に至る。本陣のある宿場町である。ここから沓掛(くつかけ)、このあたりは古墳群の地帯に入る。大枝へ入ると山道(「老いの坂(おいのさか)」になる。大枝の峠は往古から関所があったところだ。大枝は富有柿の産地である。京都編indexに戻る


本願寺と信長

頼山陽日本外史(徳川氏四)によれば

『初め本願寺の祖、姓は藤原氏、親鸞と称す。(略)八世の孫兼寿(けんじゅ)、初めて寺を山科に建て、尋いで大坂に徒(うつ)る。その曾孫光佐(こうさ)、織田信長と兵を構え、所在の門徒争い戦って已(や)まず。』

という。難波の地上町台地のほぼ突端、大阪城の地にあったのが石山本願寺。多くの門徒が城にこもり、足利将軍家や大大名毛利氏と誼を通じ、同盟を結び織田信長の力が西国に及ぶことを長きにわたり防いだという時代である。本願寺の勢力が最も伸びたときに信長と敵対することとなった。*兼寿とは八世蓮如、光佐とは十一世顕如↓続く/下は岩波文庫日本外史(下)1981.12.6第1刷発行の表紙


本願寺と秀吉

同じく外史によれば

『後に豊臣秀吉を助けて西伐し、その門徒を誘って薩摩の道を通ず。功を以って寺を京師の六条に建つ。光佐死す。二子光寿(こうじゅ)、光昭(こうしょう)あり。光昭の母は美なり。秀吉これを納(い)る。因って光昭を立つ。』

本願寺の後継に秀吉の裁量があったことが明らかである。光佐のあとは長男光寿が既に継いでいたが、秀吉は光佐の跡継ぎに三男光昭を押し秀吉政権の庇護によって浄土真宗の教団が存続し、かつ本願寺が法灯を継ぐことになる。光昭の母は美なり″で、秀吉の専権が隅々まで及んでいたことが分かる。それ以上に信長政権と執拗に戦った本願寺教団、教団の維持という大きなステップを越えることが出来たと解釈すべきである。*光昭とは本願寺十二世准如。↓続く


本願寺と家康

関ヶ原の戦いで東軍(徳川家)が勝利して後、引き続き外史によれば

『(家康)大捷(たいしょう)の後、光寿迎えて大津に賀す。内大臣(家康)曰く、「光寿は本(もと)、嗣(し)に当る」と。乃ち為に寺を六条の東に建て、天下の門徒をして分かれて東西に属せしむ。』

長男光寿こそが跡取りであると言ったわけである。家康の思いは京には無い。秀吉の裁量に異を唱え、戦国大名に匹敵する影響力を持つ教団を二分することによって勢力を削ぐとともに、天下の支配は武″であることを示したわけである。六条の東とは今の東本願寺の寺地。家康はその後、征夷大将軍の宣下を受けて、江戸の経営に専らとなるわけである。京都には本家争いのネタを残したわけ。本家争いは世の常なら自滅の道ではあるが、両本願寺は残った。*光寿とは東本願寺十二世教如


東大谷・西大谷は親鸞の廟

東本願寺

本山東本願寺は正しくは「真宗本廟」という。他に円山公園横に大谷祖廟がある。私の父と息子もここに納骨した。202号バス停では祇園または東山安井になる。一方市バス停五条坂″にあるのは大谷本廟、こちらは西本願寺の墓地であり納骨所だ。いつもバスの案内が気にかかる。大谷祖廟は東大谷とはよばれるが東大谷祖廟ではない。同じく大谷本廟も西大谷とはよばれるが断じて西大谷本廟ではない。どうでもいいことだと思っていたら・・ところが100系統では西本願寺の納骨堂大谷本廟″と正しく案内いている。五条坂バス停市バスは五条坂だけど、同じところに並んでいても京都バスは東山五条という・・ようなものかも。


なんまいだ

くどくど言いましたが、ということ、親鸞の子孫が江戸時代初めに西と東に分かれた。よく残ったとも言える。本願寺は今は浄土真宗本願寺派は「浄土真宗」と言う。一方家康に後押しされた東は真宗大谷派というように「真宗」という。いずれにしたってどちらもわが国最大の仏教教団だ。東か西かで分かる話だけど。外の人にはどちらでもいい。と言われたらおしまい。教えの基本は“他力本願”で、こちらの意味はやはり哲学的。お題目は南無阿弥陀佛。うちの爺さんがいつも”なんまいだ”と言っていた。大事なのは諦めの境地??


たとえ凡夫であっても

阿弥陀如来は仏である。菩薩の時に衆生を救済するためにたてた請願を本願という。仏になって持った力が他力である。全ての衆生が浄土に往生するのはこの仏の本願力でしかない。自力では成就しないと言われる。阿弥陀仏を第一とする教義が親鸞の教えである。私のお寺の先代御住職のいつもの説教である。最後にはいつも“たとえ凡夫であっても・・”。「人生の目標は自分の一生を人として完成させることにある。たとえ凡夫であっても、」と言う風に続く。「いずれも己の計らいに非ず」というのが締めくくりである。何も出来なければ“なんまいだ(南無阿弥陀仏)”と熱心に念仏するだけでいい・・と教えてくれた。その簡潔さゆえ今まだ分らないでいる。他力本願という言葉もである。京都編indexに戻る


西本願寺は世界文化遺産

門徒衆が、東から西、西から東へ今更宗旨替えするほどのことはないのだから、御菓子屋やカバン屋のような本家争いは全く不要な話にして欲しい。説明がややこしくなったついでに、お東さんお西さんと言うのがいちばん親しみやすくて分かりやすい訳です。も一つ言えば、西本願寺は世界文化遺産“古都京都の文化財”京都・宇治・大津の17箇所の一つである・・・。京都編indexに戻る


七条通

七条通は豊国廟から始まる。七条通の東の端(はて)、てっぺんといった方がいいのが豊国廟である。てっぺんとは阿弥陀が峰(標高196メートル)に祀られたのが正一位豊国大明神(とよくにだいみょうじん)。慶長3年(1598)に死んだ秀吉の墓所だ。秀吉死後豊臣政権は秀吉を神として祀った。阿弥陀が峰中腹に豊国社を立て、吉田兼見(よしだかねみ/吉田神道の宗家)が取り仕切ったとされる。が、豊臣家を滅ぼした家康は、豊国大明神の神号を剥奪、豊国神社は廃絶。豊臣家にまつわるものは江戸期を通じてほぼ打ち捨てられていた。↓続く


豊国廟(とよくにびょう)

豊国廟

(写真註:女坂は京女の参道。それを上がら切ったところにあるのがとよくに廟。ただし、ここまで来ると若き女性もいない、ここからまだ山上までの石段が秀吉のご廟の本当の参道。しかし上る人はほとんどいない)

豊国廟(ほうこくびょう)とも。今の豊国廟は明治になって、明治天皇の布告によって再興されたもの。また、明治30年には阿弥陀が峰頂上に五輪塔を建てた。この時、秀吉の遺骸(素焼きの壷に)が発見されたという。300年の時期を経てまた阿弥陀が峰の頂上から京都の街を見下ろこととなった。京都の東を守る青龍は秀吉であることになる。少し筋違いになっているが、妙法院(みょうほういん)から新日吉神宮(いまひえじんぐう)と脇を通り抜けながら参道が続くが、今は京都女子大学の女坂(おんなざか)と言うほうが分かり易くなっている。↓続く


女坂(おんなざか)

京都女子高等専門学校

東山七条を東山に上がれば豊国廟(とよくにまたはほうこくびょう)・新日吉神宮(いまひえじんぐう)であるが、実は「京都女子大学」の大キャンパスも。京都女子大学はもともとは明治32年(1899)仏教徒のための女学校・顕道女学校(甲斐和里子)に始まる。時は高等女学校令や私立学校令公布の時に始まる。明治5年(1872)の最初の女学校<>京都女紅場より27年の後である。それでも京都でもっとも歴史ある私立女学校である。明治43年(1910)の京都高等女学校(西本願寺婦人連合経営)に。大正3年(1914)堀川五条にあった学校を現在地(今熊野)に移転。昭和24年(1949)新制の京都女子大学となる。親鸞の体現した無我伝承″を言うが、女子大生にもそれは理解できるものではなさそう。京女(きょうおんな)でなくきょうじょ″と読まなければならない。ここが女坂といわれるわけ。↓続く


プリンセスライン

プリンセスライン

(写真註:七条通の京都国立博物館前を京都女学院に向かって走るバス。女坂を下ったり上ったり七条通から真っ赤なバスが走る。プリンセスライン。一般の乗り合いバスであるが市バスではない。)

プリンセスというものだから京女(きょうじょ)″のスクールバスかと思いきや実は一般路線バス。「プリンセスラインは公共の交通機関です」って書いてあるから市バスの路線かなと思ったが、京都急行バス鰍ニいう大阪に本社のある会社が運営する路線バスであった。京都駅八条口や四条河原町から専ら京都女子大学までの路線を運用している。路線バスながら京女を目指しているので、停留所が少なくゆえに急行路線であるわけ。もちろん路線バスだから誰でも乗れる。と言いながら、おかげで京女″はプリンセスの冠をかぶった。→*京都急行バス


京都バス事情

京都市バス

(写真註:京都市バス・・昭和50年頃の市バス、この頃までは冷房がなかった。三菱ふそう製?)

京都市内は市バスが縦横に走っている印象であるが、市バスのほかにも多くの会社路線がある。現在京都市内(あくまでも行政区として)に一般のバス路線を持っている会社を紹介しておきます。当然京都市交通局、京阪バス(京都市南区)、京都バス(京都市右京区)、京阪京都交通バス(京都市南区)、京阪京都バス(八幡市)、JR西日本バス(大阪市此花区)、ヤサカバス(京都市右京区)、近鉄バス(大阪府東大阪市・竹田駅路線のみ)、近江鉄道バス(京阪三条線のみ)、奈良交通(奈良市・向島駅路線のみ)それとプリンセスライン京都急行バス(大阪府寝屋川市)と、他に京都らくなんエクスプレスもある。あと、旧京北町を走る京北ふるさとバスなどがある。↓続く//→*京都バス*京阪京都交通バス*JR西日本バス*近鉄バス*ヤサカバス*近江鉄道バス*奈良交通*K.LOOK*京北ふるさとバス


京阪バス

京阪バス発祥の地

(写真註:街中に碑文が埋もれている。昭和2年(1927)京阪電鉄は京阪自動車の全株式を取得・・・の記述がある。

京阪バスは京都に多くの路線を持つ。そのルーツとなる京阪バス発祥の印が、京阪電車の伏見桃山の駅前にある。明治天皇の桃山御陵への参拝客のための事業を行った会社がスタートである。大正11年(1922)のこと。桃山自動車と言っていたがその後京阪電車との関連を強め、数年の後京阪電車の傘下に入る。京阪電鉄のバス事業を担う形で大阪・滋賀両府県まで事業を拡張していった。昭和47年(1972)京阪バスに社名変更。京都市内では早くから定期観光バスも運行。現在京阪バスは京阪電鉄が100%の株を持つ子会社である。本社は京都市南区にある。↓続く


京阪バスの路線

京阪バス

(写真註:醍醐寺で見た京阪バス山科営業所の主力バスW3950のナンバー、日野ブーリボン製?)

調整中です


80条バス

路線バスは道路運送法に基づいてグリーンのナンバープレートであるが、先の内、一つだけは白ナンバーのバスで営業している。それが京都京北ふるさと公社という財団法人が営業するバスである。平成17年と京都市との合併によって従来運営していた京北町の町営バスを引き継いだ形で運転している。80条(改正後78条)バスといわれるものです。要は公益目的のために自家用車の有償運送である。しかしながら、京都市の市バスの共通回数券を見るとこのバスにも市バスなどと同じように回数券(平成24年から)が使えます。12月29日から1月4日は運休とある。京都市内に限って言うと、水尾地区にも「水尾自治会バス」が走っている。JR山陰線保津峡駅から水尾まで約4キロ徒歩でなら1時間のコースを15分で結んでいる。ここも年末年始・お盆の他木曜日は定休日となっているのが面白い。↓続く//→*京都京北ふるさと公社


阪急バスを追加

25年の12月から上記の9社に阪急バス(池田市)が追加になって計10社が京都市内の一般乗客のための路線を持つ。阪急バスは長岡京駅および京都縦貫道下に出来た阪急電車の新駅と京都市内伏見区にある京阪淀駅と結ぶこととなり結果、新たに市内に入ってくることとなった。淀が発展するならいいが、競馬の客ばっかりだったとりして。↓続く//→*阪急バス


京阪バス山科急行

京都駅八条口から醍醐方面に向かうバスが山科急行。山科から醍醐寺醍醐寺は山科区でなく伏見区であるが)まで運転している。途中京都十条から山科の大石神社まで有料道路阪神高速京都線の稲荷山トンネルを通る。京都市交通局は地下鉄で市内と山科を直結したというのかもしれないが、京都駅からだと北へ大回りして行く、もしくはJR六地蔵駅経由で南へ大回りして乗り換えるしかない。この急行バスはほぼ30分で山科と京都駅を結ぶ。運賃も300円で値打ちある路線だと思うのだが。そんなに繁盛してるように見えない。高速を通るので路線バスと言いながら、座席の数を越えて客を乗せられない。もう一つ、短距離乗車が出来ない乗車・降車の制限がある。これをクローズドドアシステムと言う。在来路線会社との競合を防ぐための京都には昔からあるなんとのう意地悪な手段だ。サクラの時期に醍醐寺に行くにはお勧めする。↓続く


京都らくなんエクスプレス

らくなんエクスプレス

(写真註:らくなんエクスプレス。平日午後京都駅行きの車内。乗客は私の他一人だったが、市バスよりは快適な空間だった。)

これも京都駅八条口から新しい幹線道路油小路通を通って城南宮や伏見の国道大手筋方面を結ぶ路線を数年前から運行している。京都から伏見方面には地下鉄も近鉄もJRも京阪も走ってはいるが、国道1号線側は未開発でもある。市バスが地下鉄との都合で竹田駅を中心に路線を組んでいるせいもあるかも。市役所もらくなん進都″などと言って高度のある開発に力を入れたいところだがいかんせん鉄道駅から遠い。実はこの辺りは平安時代から平安京の入り口であり、院政の都・鳥羽離宮が営まれた地である。今でも京都の入り口である。都市交通の施策としても重要だと思う。シャトルバス感覚であるがれっきとした路線バスである。平日昼間でも20分間隔で運行いているところなど、市バスの役割をカバーしている。八条口の乗り場も分りにくい。民営で路線を維持していくのはそう容易くなさそうな気がする。観光の利用者を増やすためにはまだまだPRが必要。↓続く


高槻市バス

世に例外はあまたあるが、京都市内の路線バス事情の例外が高槻市営バスである。大阪府高槻市の最北に田能といういうところがあり、高槻駅から市バス路線がある。この市バス路線に停留場に空谷橋(からたにばし)がある。このポイントが京都市西京区(大原野出灰町・おおはらのいずりはちょう)の行政区域になる。この道は枚方亀岡線。高槻から亀岡市に抜ける府道(大阪府道6号・京都府道6号)である。府県界を通っていることからここだけこんなことになった。京都市内方面への道もバス路線もないのでないので京都市民の足とはなっていない。京都市は高槻市にも隣接しているという感覚を持ってほしい。バスについては例外であるのでカウントはしていない。京都編indexに戻る


一日乗車券

市内観光には500円の一日乗車券が何と言っても目玉だ。市バスはやっとICカードが使えるようになったが?何故か今でも乗継のサービスが無い。その点、観光には一日乗車券が便利な訳です。ただ、乗継には注意が必要です。交差点の東西南北、それぞれ系統ごとにバス停が違う。結構な移動だったり、分からなかったりする。ある程度慣れが必要です。京都は碁盤の目の町割り、だから交差点ごとにバスの向かう方向が違うからです。それにしてもバス停もっと交差点に近くならないものでしょうかね。京都編indexに戻る


一日乗車券その2

一日乗車券

この一日乗車券の中でこのデザインのが気に入っている。イメージは京都水族館、海の無い京都の町中で人工海水を使う民営の水族館。淡水のオオサンショウウオがシンボル。このカードのイラストは京都市立芸術大学・楠麻耶さんと桑田知明さんとある。なかなかいいデザインだから紹介しました。知人ではありません。→*京都市立芸術大学/→*京都水族館京都編indexに戻る


嵐山まで使えます

冬の渡月橋

(写真註:冬の渡月橋。京都の冬が好きだという人も多い。京都に冬は雪か時雨れ。バスに乗って一日券でここまで来れるのはありがたい。)

26年の春から市バスの一日乗車券が嵐山(大覚寺)まで使えるようになった。一日乗車券を買っても境界の停留場からの料金を払わなければならなかったのがなくなったわけ。今まで嵐山方面に大きな不都合だったけど、ちょっとすっきりした。広報では競合する京都バスのご英断で″などと役所らしい(こういうことを言うのは大体ウソっぽいという意味)ことを言ってるが、今になるまで市民ための英断をしなかったのは市バスの方じゃないだろうかね。京都バスにも一日乗車券が使えるらしい、そのことを言ってるのかも。今まで相当意地悪してきたのは明らかに交通局の方。京都バスにはメリットの少ない話だし。京都嫌いの原因の一つが市バスだという話はまだ残っていることだし。京都編indexに戻る


市バス206号系統

循環系統です。京都駅から北大路、東は東山通り、西は千本通り、平安京の東半分、今の京都の観光の中心部を取り囲んで走る。有名社寺が網羅される。京都観光に迷ったら500円の一日乗車券を買って206号で回ったら安上がりです。もちろん一日、二日で見れるものではないですが、ご紹介します。京都編indexに戻る


智積院(ちしゃくいん)

智積院

(写真註:智積院の正門)

東山通七条の交差点、先ほどの女坂の上り口南にあるのが智積院。真言宗の18ある本山の一つで智山(ちさん)派の総本山。秀吉の紀州征伐に対抗した根来寺(ねごろじ)の流れを汲み五百仏山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)という。空海の山高野山は東寺が統括していた時代にすこぶる荒廃していたのを興教大師(こうきょうだいし)により中興されるが、高野山内にも軋轢(あつれき)があり興教大師は高野山の座主を辞し紀州の根来寺(ねごろじ)に隠棲(いんせい)。その後戦国期の根来寺は粉河寺(こかわでら)などと並んで紀州の一大軍事勢力として隆盛を極め、本能寺の変後、和泉にも侵攻した。豊臣新興勢力と対峙し、岸和田合戦では建設途上の大坂の町を破壊し尽くした。秀吉が徳川家康と覇権を争って対峙した小牧長久手の戦い(天正12年・1584)に出陣しようと言うときであった。が、翌天正13年(1585)に豊臣秀吉の紀州征伐により本拠地の根来寺も焼けた。この年に紀州を平定して秀吉関白になる。


根来寺智積院の再興

真言宗の新しい教義を継ぐものは根来寺の塔頭(たっちゅう)智積院住職の玄宥(げんゆう)僧正であった。根来寺焼けて後玄宥は高野山や高雄山を転々としていたが、すぐに天敵とも言うべき秀吉が没し、慶長5年(1600)関が原の戦いで家康の覇権が確立されると、かねてからの大伝報院(だいでんぽういん)を再興する願いが家康によって許された。しかも秀吉の豊国神社の境内に土地を与えられた。興教大師(こうきょうだいし)以来の新義真言宗と言われる教義の道場を再興することが叶ったわけである。かくして智積院第一世となる。その後江戸期を通じて徳川家の保護もあり真言宗の一大教学道場となる。なお、紀州の根来寺も紀州徳川家の保護で再興された。どちらも今は真言宗十八本山(宗派)の一つとして残っている。↓続く


消滅した祥雲禅寺

秀吉の嫡男は鶴丸という。浅井長政の娘茶々(淀殿)の子である。残念ながら3歳でなくなる。その嫡男の菩提を弔うということで建てたのが「祥雲禅寺」(天正19年・1591)。権力絶頂のときの豊臣家の寺であり東山随一の規模だというが、今は敗者の例により歴史的に埋没している。庭園は寝殿作り風の池を巡らした優雅なものであったとされる。元和元年豊臣氏が滅亡した後、この寺の財は徳川政策で智積院に引き継がれた。智積院の名勝庭園として残っている。また、長谷川等伯(はせがわとうはく)等の障壁画も祥雲禅寺のときのものである。芸術は歴史を知るものであるし、名園は残る。このことは徳川政権のよる秀吉の廟域の破壊の目的を持ったものであり、それには豊臣の覇権に抵抗した根来寺への褒賞と言う意味もあったと推測される。京都編indexに戻る


梅の花

智積院の梅の花

(写真註:智積院の紅梅、適当な間隔で植えているのがいい)

京都での梅の開花の平年値は2月20日(京都地方気象台生物季節観測″による)となっている。前項の智積院(ちしゃくいん)は梅の花がふさわしい。名勝庭園に入らなくとも鑑賞できる。少し脱線するかもしれないが梅の季節に梅の花の話を。馥郁(ふくいく)たるという言葉がある。よい香りが漂っている様を言う。相当難しい字であるのでなかなか覚えられないが、梅の花のときはテレビでも新聞でもよく使われる。「馥」とはかぐわしいという意味。「郁」も香気の盛んな様を言う。が、花の美しく開いて香を放つ様の意味がある。郁子(いくこ)さんと言う女性の名前がある。女性の名前としては最高のランクと気品を持つ。この郁子さんと名づけられた方は大体2月・3月の生まれの人が多い。と言うのはこの意味である。この季節にふさわしい香りが梅の気品ある香りである。梅子と言うところを少しひねって郁子と名づけたものである。男性には似合わない。そう今まで思っていたが・・↓続く


ムベ(郁子)なるかな

冬の渡月橋

(写真註:ムベというのはアケビ科ムベ属にてアケビの仲間で少し小型。アケビと違って熟しても実は裂けない。別名トキワアケビ(常葉通草)とも言う。)

この郁子(いくこ)さん。もう一つの読み方はむべ″さん。不老長寿の霊果。むべなるかな・・(天智天皇の言葉)″のムベである。山野に自生していたわが国の伝統的な果実である。野木瓜(のぼけ)とも書きやもっか″と発音すると、ムベの茎や葉で生薬の一つ。山野豊富な京都府内においても準絶滅危惧種にリストアップされている。その郁子(むべ)は俳句では秋の季語、と言うことは・・郁子さんというのは、秋の生まれの人も多いとのこと。俳句好きのかいこ氏の弁である。いずれにしろ郁子さんとは香気と霊気にあやかりたいという親の願いを持った名前である。アケビ(明美)は熟して割れていて、ムベ(郁子)は割れていないくらいの差はあるかも。京都編indexに戻る


鴨川の橋は下から見せるべき

七条大橋

鴨川に架かる橋で一番古いのが七条大橋。市電を通すために大正2年に出来た。今年(H26年)は大正に直せば大正103年だから100年を越えた訳。渡っているだけでは分からないが、鉄筋コンクリートのアーチ橋で、橋台が頑丈である。極めて構造にも安定感がある。七条大橋は下から見るべきもの。鴨川の大水害(たとえば昭和10年)にも耐えた。土木構造物として見た場合橋梁の最大寿命は100年とも言われる。そもそも京都の街中の人は鴨川の橋の下で夕涼みしていた。安直に架け替えなどしない工夫をお願いしたい。この橋を東へ行くと伏見街道を越え三十三間堂・国立博物館行く。プリンセスラインも走る。また、この橋は土木学会の土木遺産にも選ばれているので紹介した。→*土木学会選奨土木遺産京都編indexに戻る


丹波口

七条通を西向き(京都駅から)に行くと、JR山陰本線の高架の下をくぐる。その辺りにあったのが丹波口。山陰から京に入るために、丹波と山城の国の境にある老ノ坂を越えるのが昔からの街道である。秀吉の時代に「お土居」を築いて丹波方面の出入りに使用した街道口を「丹波口」とよぶ。今で言えば千本通七条を少し上がったところにあったとされる。七条通から千本通やその西の七本松通を上がったとことにあるのは今は大京都市の中央卸売り市場になっている。その南は往時はびっくりするほど広大な梅小路貨物駅につながった京都の物資集積場所だった。その所為かここから西大路にかけての七条通の両側は大きな賑やかな商店街であった。けれど・・↓続く(ただし、工事中です)


九条油小路

東寺

京都の南の通り九条通は、ほぼ平安京の九条大路にあたる。今は東は東大路通から西は葛野大路通区間。市電通りでもあった。昭和 年に廃止された。堀川通をJR線をくぐって九条通りに達するとなぜかそこは九条油小路ということになる。この九条油小路交差点から東寺の西側の通り京阪国道口交差点までが国道1号線になっており、大阪方面へまたは大阪方面からの玄関口になっている。その玄関口に建っているのが東寺。巨大な京都駅を挟んで北の京都タワーとこの東寺の五重の塔のシルエットが京都ドラマの定番のランドマークになっているのはご存じの通り。↓続く


西寺の謎

東寺は「教王護国寺」とも言い今は「東寺真言宗」という教団の本山である。最初の歴史に戻れば平安京の造営のときに羅城門の東側に建てられた官立の寺院である。嵯峨天皇(52代、桓武帝の皇子)により、空海に預けられたために真言密教の道場として今に残っている。一方西寺も空海と同じ真言宗の僧守敏に下賜されたとされている。以降薬師寺や醍醐寺の僧が別当を勤めてきたが次第に衰退していた。13世紀には塔も焼失し、以降不思議にも記録から西寺の名が消える。南区唐橋小学校の付近であり史跡にも指定されているが、正確な伽藍配置などの発掘調査はなされていない。西寺の衰退は平安京都の謎の一つである。↓続く


空海

さて、空海であるが・・、空海は774年讃岐の国に生まれる。仏教にのめりこんだ空海はやがて「大日経」に出会う。大日経の真理を解くべく、唐に渡る決心をする。804年遣唐使船にて渡唐(最澄も)806年帰国(大宰府に留まる)、この年桓武帝が崩御、平城天皇(51代)即位、809年平城帝は上皇に同母弟嵯峨天皇(52代)が即位。空海は京都高雄山(神護寺)に帰る。810年薬子の変、嵯峨天皇側についた空海はその後東大寺や乙訓寺の別当に、823年嵯峨天皇より東寺を賜ることとなった。→以降工事中


若冲の五百羅漢石峰寺(せきほうじ)

伏見街道深草まで行くと、稲荷を越えて少し山手に上れば石峰寺。伊藤若冲は京都錦市場の青物問屋の主人でもあったけど、代を譲ってのこと。その若冲が晩年暮らしたのが深草村黄檗宗石峰寺の門前。石峰寺和尚とともに五百羅漢の制作にかかった。五百羅漢の下絵を描いたと言われる。当時若冲は、生活費に絵を描く生活に入っていたと言う。一枚の絵が米一斗という生活だったとあるが・・、絵は残った。むしろ絵は、若冲と言われるものになっていった。生涯独身、子もなさなかった。寛政12年(1800)ここで亡くなった。85才だったという。幕末に錦の店も没落。何も残すこともない人生だったと・・若冲の画風と石峰寺も五百羅漢も廃仏毀釈の波を乗り越えて辛うじて残った。


わたしの青秀庵

京都の寺社をネットで検索すると、「私の青秀庵」のページがよくヒットする。ヒデさんのうろちょろ京都散策と銘打って京都の社寺のことが簡潔にかつ系統的に網羅されているサイトがある。リンクフリーだとあるので紹介させていただいた。すごいと唸ってしまう。私も何度も参考にさせていただいたが、もちろん同じようなことをするつもりはないので、私の読者にはそちらの案内もさせていただく。ともかく閲覧ください。ヒデさんは昭和16年生まれだとある。残念ながら停止しているみたい?


京都写楽苦会

京都サイトをもう一つ。インターネットの写真塾。インターネットだけで参加出来る。「写真は楽しく苦しく美しく」がモットーとある。ウエブサイト姉妹提携でこのページもリンクを貼り付けってもらっているので、相互リンクの原則に従って案内します。「京都写楽苦会」と言う。→*京都写楽苦会

京都写楽苦会

日本の中の異国

京都サイトをもう一つ。京都は都会でもなく田舎でもない、日本の中の異国だと言った人がいる。まったく同感だ。修学旅行の多いわけか?その人の楽しいウエブサイトの紹介をします。→*京都うらみちあんあい京都編indexに戻る


都の外は都の庭

それとは別に都市か田舎かと言えば、明らかに都市だろう。都市の大きさは郊外の大きさだと思う。京都は平安京の時代から都の外に文化が集中してあった。郊外を楽しんでいた。そういう意味では大阪よりは都市としての出来がいいように思う。


都の中

明らかに都市である証拠は、子供が多いことだ。子供が多いことはまだ都市としての命がある証拠だと思う。田舎へ行って驚くのはやはり人通りが少ない。子供の姿など稀だ。人はいつも流れている。人が流出している限り衰退していく。東京だ大阪だ京都だと言って名前で人が動いているのではない。子供を育てられるのが都市の魅力の一つだ。京都編indexに戻る


清水寺のご本尊は千手観音→★清水寺と鳥野辺(とりのべ)

今熊野から滑石越(すべりいしごえ)→★仮名手本忠臣蔵

定子(ていし)と彰子(しょうし)→★ 清少納言と紫式部

三尸(さんし)の虫→★庚申(こうしん)信仰

12年ぶり秘仏十一面観音御開帳→★空也上人(六波羅蜜寺)

京都バス事情→★京都バス事情

鐘だけが残った、鐘は余韻が大事である→★正面通(しょうめんどおり)は大仏正面

高台寺→★落語幽霊飴

正面通を西へ→★任天堂

正面通の行き着くところ→☆島原遊郭

丹波口駅→☆島原遊郭の駅

丹波口→☆山陰街道

祥雲禅寺→★智積院(ちしゃくいん)の再興

郁子さん必読→★智積院の梅の花

京都の盆の過ごし方→★六道の辻

空海と東寺→★西寺の謎

承久の変→★六波羅の栄華

銀閣寺→★現実逃避の東山文化

空海と東寺→★西寺の謎

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