令和6年(2024年)は平成なら36年になります。甲辰(きのえたつ)の年です。明治157年に、昭和で言ってもなんと昭和99年になります。新切鯵(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鯵は都市漂泊、舌足らず言いっぱなし巷談です。薀蓄もどきは飛ばして読んでください。京都の歴史の横断面図。間違っても京都検定とかの参考にはなりません。所詮切れ味は草刈り鎌にして効き目はペンペン薬草。ただし一度に飲むと下ります。自家製につき無料、つまみ読み大歓迎。文字は大きめ。広告は本文とは関係ありません。日々予告なしの現在進行形。令和とともに10年を迎えました。あなたに読んでもらって何ぼです。(25.11書き出し)
ご愛読ありがとうございます。館長さん、かいこさん、ご教示ありがとうございます。鞍馬の姉さん若女将、松井酒造の若女将、宮川講師出演スミマセン、ついでに、読者にもなってくれたら励みになります。
/京都案内として見る場合は本文にもリンクを貼り付けてますのでそちらをご参照ください。*マークが外部リンクです。
路地ろぐ(京都編)
京都は祠(ほこら)の苔の上の椿。木を見ても京都、朽ちた祠を見ても京都、苔を見ても京都、椿を見ても京都。落ちた椿もまだ咲いている。新切鰺(しんぎれあじ)の手ひねり巷談。ときには祠の扉の中も覗きます。落ちた椿ながら錆びない古都、京都編を始めます。上を向いて唾を吐けば、自ずと自分にもかかる。自分の唾なら仕方ないか、ということで始めます。
学校で習った歴史は、ほとんどが政治史、権力の推移をなぞってます。そういうことですので勝者の歴史。結果だけの世界。敗けたほうの歴史というものは埋没している。勝者の歴史はヒストリー、一方敗者の歴史はストーリー、物語という。hiがあるかないかと誰かが言っていた。これ受け売り。ただ、勝者の歴史は文字で残された。敗者は文字で残すことを許されなかった。語り継ぐことによってのみ許された。それが物語である。と路地子(ろじこ)こと小生は思っている。ただの物語であってもそこには表面の歴史に負けない理(ことわり)がある。理屈っぽいのも理(り)だけど、あなたに少しでも納得してもらえるのも理(り)。目が曇り耳が濁る世相にこそその理(り)というものが大事。
覇権が京都を去って、もう400年。安土桃山時代は京都の最後の花だった。天下を分けた関ヶ原(1600)は、徳川の覇権を固め江戸を都にした。新しい権威を打ち立てていくには自分の地盤のある関東の方がいい。大坂夏の陣(1615)から20年、参勤交代の制度(1635)は徳川の覇権がゆるぎないことと江戸が都ですよと日本全国に教えたことになる。かって都のあったという意味では、その時京都は奈良と同じく古都となった。古都というのは首都でなくなった哀愁のある一地方都市という意味でもある。古都ではあるが錆びない古都である。↓続く
そういう一地方都市としての京都を忘れてはならない。古都または古都だったということは歴史という年月だけでなく多くのことを包含している。政治・経済はだけでなく、文化・文学・美術・芸能・風俗・医学・武術・染色・工芸・繊維・工学そして何よりも都市作りの土木・建築・造園など、様々なことが幾重にも積み重ねられた地層を持っている。都あるところには必ず争いがあり、その地層の中に何代もの人の骨が地層ごとに埋まっている。発掘調査やボーリング調査は路地暮らしの私には出来ないけど、せめて断面的に見る目は必要ではないか。長い歴史とは記憶である。だがしかし、古都もまた今生きている都市でもある。遺産とは生きてるものに残された財産ではあるが、遺産は選択できないもの。どれほどの値打ちがあるのかはこれからもゆっくり勉強してからでないと言えないと思う。↓続く
徳川体制は武家の社会である。もう一つの特色は身分社会であったこと。戦国時代のように身分がひっくり返らないことが武家政権の安定の基盤。それがひっくりかえったのが明治維新。だが、ひっくり返した人はまたひっくり返らない仕組みを考えなければならなかった。最後は外国という大敵にひっくり返されてしまった。大都市であればあるほど大きな影響があった。それが首都である。栄えた歴史は滅んだ歴史でもある。ハッキリ言って、首都である東京で起こったことから比べると京都の震度は地方都市らしいことだったと思う。ただ日本全国多くの都市のように、この一地方都市でも多くの家が栄え多くの家が滅んだ。首都から大都市へ、大都市から地方都市へ、都市から田舎へ、震度を落としながら波は伝わっていく。400年前から東京がこの国の首都である。↓続く
江戸を中心として見た場合でも三都と称されるのは大坂・京都である。時代が変わって政権が江戸へ行っても当時京都の人口は58万人もあった。それは西陣織などの繊維業が興隆を極め、呉服商や両替商などの繁栄が京都を一つの都として支えるものであった。江戸の武家政権に対抗しうる力は実は京都の工業力とそれに伴う商業力(資本力)にあった。この工業力と資本力がいずれ政権の都に吸収されていくのは消費の力であり、消費地に向かって資本が擦り寄って行くというのが当然であった。元禄時代以降100年後の江戸の繁栄はそれが都であるということをむしろ如実に語っている。幕末の頃、一時薩摩藩が京都で政権を担うという幻想的バブルがあったが、廃藩置県により京都府(京都裁判所)の頃の京都はおよそ25万にまで半減していた。という。↓続く
徳川政権安定期には相当な教養人でないと京都のことなど思うことがなかった。京都・大坂のほとんどが幕府の天領であり、京都・大坂の町で武家は限られていた。朝廷・公家が居ても。消費力の落ちた京都の町は大名の城下よりも小さな町になっていた。秀吉の作ったお土居も早々と壊され、庶民の暮らす下京も四条から南、二条城より西は一体の田園風景だった。ここで暮らす人にとっての関心事は日々の暮らしのことだった。この地に朝廷があると感じさせられたのは、ペリー来航以来、尊王攘夷の気運に乗り遅れまいとした幕府や各藩が京都に屋敷を構えて不動産価格の急騰した幕末動乱の時代だけ。↓続く
幕末には200年間一度も来たことがない国の人が北から南からワーッと寄ってきて、京都を舞台に闘いを繰り返し、死んだ人を残してみんなで東京へ行ってしまっただけのこと。決して首都の動乱ではない。東京を治めるものが覇権者であると皆が知っていたのに、京都の人にだけは勘違いの期待があった。何故なら京都は長く血なまぐさい戦場だったのだから。明治天皇は京都生まれの生粋の京都人。市民が勘違いしたとしても無理はない。それを理論ぶって、東京遷都(せんと)の詔(みことのり)が出てないのでまだ京都が都のままだと意味のない手続き論を言う京都人もいるが・・幕末というのは端的に言えば江戸を取るのが目的の政権交代戦争。政治をしていくための装置はもはや江戸にしかなかった。まだ続いている戊辰戦争(ぼしんせんそう)を勝利するためにも新政府を江戸に建てることが明確な目標であったのだ。
国際観光都市などと言われることはほとんどの市民が嫌ってます。それでも国際的にはまだ知名度が低いなどと観光協会や市役所が煽ってます。春・秋のシーズンはバスもタクシーも一杯です。渋滞ははなはだ激しいし、そんなところに車自慢のマイカーがどこまででも入ってきます。歩くのも難しいのにそこを時代錯誤の人力車までがうろうろします。こちらは静かに歩いているつもりなのに頭の上で外国語会話が飛び交ってます。皆が修学旅行生のようです。京都で暮らしていると毎日が旅行みたいでイイですね。と女学生が言ってくれました。もちろんハイと答えました。皆さんは見ることのない路地のサクラもモミジも見ることが出来ます。素直な可愛い人には優しく答えます。大人の女になったらもう一度京都に来て下さいね、と。出来れば京都でお暮らしなさい、とも・・
京都では袋小路のことを路地と言います。ろーじ″と言うアクセントです。ろぐ″とはブログなどのログ。「路地ろぐ」はどんつき(行き詰まり)という意味。因みに袋小路になってないものは辻子(図子・ずし)と言いますが、こちらは日常会話ではあまり使われません。前置きが長くなりましたが、、、、これから「新切鰺の京都巷談」を始めます京都編indexに戻る
時代によっても違うけれど、それを越えてである・・・・京都盆地に東西の中心に仮定する南北の線を引くと、鞍馬、今宮神社、船岡山、平安京大内裏、平安京朱雀大路、聚楽第(じゅらくだい)、二条城、東寺・西寺、平安京羅城門、鳥羽離宮、伏見城、淀、石清水八幡宮、巨椋池(おぐらいけ)、宇治、国境の奈良坂を越えて東大寺に達する。ともかく一度はこの縦の軸を中心に横断面を切り取って巷談をまとめていきたいと頭の中で思っている。京都編indexに戻る
例外を先に一つ、この南北の軸の天井にあるのが北桑田郡京北町(きたくわだぐんけいほくちょう)。ただし平成17年に京都市と合併、今は京都市右京区となっている。北桑田郡というのは丹波の国。市制としての京都市は今までも膨張の一方であった。ついに山を越え昔の国境を越えてしまった。北桑田郡には北桑田郡の風土があり、京都市ということで一くくりにするものでない。周山(しゅうざん)や山国(やまぐに)などと言えば昔から馴染み深いところもあるが、この路地ろぐでは山城盆地をテーマにしているので、旧京北町や旧北桑田郡の人にはご了承願いたい。25年12月栗尾峠にトンネルが開通。写真は山国神社。祝。
堀川通りを北上すると上賀茂神社に達する。上賀茂の北、柊野別れ(ひらぎのわかれ)を右にとると京都産業大学の前を通って、市原を経て鞍馬寺の山門の前に到達する。京都駅からだと概ね15キロくらい。山城盆地の北のどんつきの山である。京阪出町柳から叡山電車が走っている。縁起によれば鞍馬寺は奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の鑑真(がんじん)和上の弟子で唐から渡ってきた鑑禎(がんちょう)上人が770年に庵を結んだのが始まりだと言っている。長岡京・平安京の遷都を行った桓武天皇の先代(父)光仁天皇の時代のことになる。奈良時代の最後の頃であった。延鎮(えんちん)の清水寺が778年、ともに平安遷都の前の時期である。平安遷都は794年のこと。↓続く//→*上賀茂神社→*京都産業大学→*叡山電車→*唐招提寺(奈良)
(写真註:兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん))
が、別の書によると、平安京造営の時に東寺築造の長官を務めた藤原伊勢人(ふじわらのいせんど、藤原南家の人)が、貴船の神のお告げにより平安京の北に毘沙門天(びしゃもんてん)が祀られていることを知り、観音とともに安置する伽藍を作ったともされる。平安京の南の羅城門の楼上には毘沙門天が祀られていた。都を守る神は毘沙門天であった。今は東寺で祀られている。中国西域から伝わったばかりの信仰であり、北の守りのもう一つの毘沙門天が祀られているのが鞍馬寺であった。毘沙門天は仏を守る武神四天王の一人で多聞天のことである。体は黄色で甲冑をつけ忿怒(ふんぬ)の相を持つ。鞍馬寺の本尊である。が、毘沙門天は何故か室町時代末ごろから七福神の一人になった。現世利益(げんせいりやく)の考え方には勝てないものだ。その所為か京都市内(東山・上京・中京・下京各区に)に7か所も毘沙門町と言うのがある。
(写真註:新緑の頃の鞍馬寺仁王門。この写真の右に駐在所がある。駐在所としてはいいところにある)
話を鞍馬に戻して・・。正面の石段をあがったところが仁王門、そこが山の入り口、愛山料を払って寺に入る。少し行くとケーブルカーの乗り場がある。そこから200メートル、多宝塔まで2分で行ける。もちろん有料である。これは宗教法人としての鞍馬寺の経営する事業。鞍馬寺は戦後(昭和24年・1949)に真言宗から離れ、鞍馬弘教(くらまこうきょう)という新しい宗教法人となっている。この法人が鉄道事業の免許を得て行っているわけ。小ぶりながら立派なケーブルカーである。しかし、さすがにお寺の経営、ケーブルカーは混みますから、本堂まで約1時間、できるだけ歩いてお参りくださいと書いてある。上りはさすがにキツイが春は落ち椿の道でもある。奥ノ院に向かえば夏は冷たい霊気を背中に感じられると言う人が多い。↓続く//→*新西国三十三箇所
鞍馬山の奥僧正が谷には僧正坊という大天狗が住んでいる。これが鞍馬天狗。大地の霊気を一身に持った本尊護法魔王尊(ごほうまおうそん)の姿でもあると言う。見える天狗の姿は正に不死身にして超人的な修験者(しゅげんじゃ)の姿そのもの。大小の天狗が修業していた。大天狗の霊力は俗人には厳しく、俗人はいつも魔力(鞍馬の山のエネルギー)を持った天狗を恐れている。その一方で俗世間の理や法を正す天狗の力を望んでいるのではないか。人は恐れるものを持たなければならない。能に出てくる牛若丸や、大仏次郎の幕末小説も天狗の魔力に対しての畏怖と憧れをテーマにしたものと思う。仏像を拝むのとは少し違う波動空間が鞍馬山にはある。挿絵は鞍馬のチリメン山椒の包装紙を見本に天狗を描きました。↓続く→*チリメン山椒
(写真註:昭和50年に京都新聞社から発行された「京の七口」の最初のページにある鞍馬寺門前の様子。歌謡曲的旅情を感じさせる。が、路地子の若き日のデートイメージに重なる。右側にあるのが女三代のそばや心天狗″と言っていたかは知らない。一度確認したいと思っている。写真は京都新聞社出版部です。)
お寺の資料によると鞍馬寺はなん度も焼けている。江戸時代には多くの僧坊があったと言うことだが、明治になる前(1814)にも本殿ともども焼失、昭和20年(1945)終戦の年にも火災。文献によれば開かれて以来6回もの火災にあっている。現在の形はその後出来たもの。正に戦後復興した寺院でもある。残された多くの仏像が国宝に。鞍馬の山が残っている限り、門前の里の人の暮らしは続く。鞍馬の門前はそばがおいしい店が多いところだ。中でもおにぎりやさんのそばが美味しい。女三代″の「和み家 心天狗(なごみやこてんぐ)」を筆者は利用している。「路地ろぐ」の読者は鞍馬へ来たらば寄るべし。↓続く/→*鞍馬/心天狗(※筆者メモ:「京都府で人気のそば」第1位にランキングbyねとらば調査隊(2023.3版))
(写真註:明るい女将です。妹さんと、どちらも美人ですので、区別してねーさん若女将″と呼ばしてもらいました。3人の子供さんを育てるお母さんでもあります。女三代目候補の娘さんもいるが、男の子もちゃんといます″と・・・中は民家を改造したいい空間。奥にはしっとりした座敷も・・・)
鞍馬の里の人は京都の街中から離れて静かに暮らしている人が多い。叡山電車の駅や門前の回りはそれでも土産物店やそば屋など。その一軒が「心天狗」と書いてこてんぐ″。前項で女三代″と紹介したそばやさん。しかし、それからおばあ様が亡くなって今は「店はおばさまと妹と女三人」ですと言ってました。私はホームページもブログも弱いのでと正直なお話でした。宣伝も何もしないで、それでもランキング1位になったりするのは驚きです。もっと驚くのはそんなこと気にもしていない。それすら知らないのではないかと思うくらい。現にメニューも値段も昔と変わらない。そんな中もっぱら一人で若女将役。女三代の心意気は継いでいきたいとの気持ちが感じられます。お客さんがあればせっせと働くだけ。鞍馬にはランキングなど似合わない。里での暮らしが続けられたとしたらそれが一番いいことです。そんなことを言い出しそうです。美人です、奥の方にいる京女です。↓続く
鞍馬山へ行くには叡山電車が走っていると紹介したけれど、バスもある。地下鉄の終点国際会館前から京都バスが出ている。京阪の出町柳からのバスもある。がこれは鞍馬(約43分)を越えて花背(山の家・1時間13分)や広河原(1時間50分)まで行く。ただし、時間帯と本数に注意。慣れないマイカーがどこへでも入ってくる。貴船神社沿いの道でもそうだが、時々大渋滞に遭遇する。離合も困難なところで何十メートルもバックする事態に遭遇する。大きめのマイカーも原因だけど、貴船の川床料理屋の商売熱心のせいもある。二ノ瀬にバイパスが通った。せめてバスに乗ってやって来てくれる観光客の足を確保しておかなければ、いずれ無くなってしまう。渋滞で難儀してるのも無くなったら困るのも地元の人である。京都編indexに戻る
(写真註:さある神社の絵馬を写す。大己貴命(おおむなちのみこと)とは大国主命(おおくにぬしのみこと)のことである。)
鞍馬は山城の国の北端。山城盆地の北端は紫野。紫野という辺りは平安京の中心軸、船岡山の北になる。その平安京の中心軸の上にあるのが今宮神社。北大路通(きたおおじとおり)を歩くと、このあたり船岡山の延長か?東西に比べて少し高くなっている。平安京建都の以前から、スサノオを祀る社があった。遷都後は疫病退散の御霊会(ごりょうえ)が行われたところでもある。一時、船岡山の山上へ、その後、元の地へ戻ったと言うことでその後今宮と言うようになった。スサノオに加え、大己貴命(おおむなちのみこと)らを祀る。大己貴命は出雲の神である。大国主命(おおくにぬしのみこと)である。スサノオの子とも、六代の孫とも言われる。仏教の大黒天と習合して、七福神の一人になった。↓続く
今も氏子が多く祭礼の盛んな神社である。平安遷都以来の社であるが、応仁の乱の戦場となって焼失。徳川三代将軍家光の側室お玉は、この地西陣の八百屋の娘だったと言われている。江戸で巡りあわせて五代将軍綱吉の生母になったお玉、桂昌院(けいしょういん)となった縁でこの社の復興につながった。という神社である。西陣を氏子の地とする勢力を持っている。↓続く//→*今宮神社
(写真註:七夕の日の前の織姫社)
この今宮神社の境内に祀られているのに織姫(おりひめ)神社がある。今宮神社の氏子には西陣の機織りに関わる人が多く江戸期に機織りの神様を祀ったとある。祭神は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、織物の巧みな女神である。七夕伝説の織女(しょくじょ)に機織りを教えたと言うが・・?西陣織の組合では11月11日を西陣の日と定めている。今宮神社のサイトによれば8月7日は織姫社の七夕祭としているが、11月11日が織姫社の大きなお祭りになっている。↓続く/→*西陣織工業組合
(写真註:一方は「一文字屋和助」1000年血統・二十五代″Hさん、一方はかざりや創業400年本家・根元″Oさん。血統対根元。何ともともに言葉と宣伝では一歩も引かぬ勢いが京都らしい。)
この神社の名物があぶり餅。本家争いの元祖だ。東の門の前に茶店が向かい合っている。何しろ平安時代からあるという話だから、茶店と言っても今でもまさに時代劇にもってこいの風情。なかなかのものである。どちらもあぶり餅。メニューはあぶり餅のみにしてともに一人前500円。定休日はともに水曜日。客引きのために通りの真ん中の石畳みは踏まない。共栄繁盛の見事な調和。歴史京都らしいと言えばそうかも。どっちの贔屓しようとここまでくれば楽しい。本家争いのルーツであるが、2代3代では真似が出来ない筈。↓続く
(写真註:ニックネーム宮川はな講師。芸能文化史の講座をさる女子大学で持っている。カルチャーセンターでは話しだすと止まらないくらいなんでも知っている。)
実は私が通うカルチャーのスーパー講師宮川女史、教室でのニックネーム宮川はなさんが「鬼平犯科帳」とこの「あぶり餅」と京都のお酒「富士千歳」(松井酒造)の一升瓶の大ファン。時雨れる京都の冬にこのあぶり餅はよく似合うとて、この前、職業柄(実は芸能文化史専門)いつもの疑問をいつもの店の人に。「なんで喧嘩せーへんの。喧嘩せんでもええけど、何百年も向かい合わせで店やってて娘も息子もおったやろうに間違い(恋)の一つもなかったんかいな?客引き何百年やろ・・!!」と。こんな微妙な関係が何百年もバランスよくは続かんはず。絶対に喧嘩してるはず・・・と。京都で前の戦争と言ったら応仁の乱のこと、などというまことしやかな作り話を嫌う宮川女史らしい話である。京都だってこの前の戦争と言えば太平洋戦争のこと。↓続く
日本酒に関してだけ言えば、酒の飲める女性は器量良しである。日本酒の似合う場所や料理も年齢もある。その場に似合うということはそう簡単ではない。それなりの苦労もあっただろうに、体の線を崩さずに人に苦労を感じさせないとしたら女のプロみたいなもの。男すら飲める女の証かもしれない。ワイワイぺちゃくちゃ喋るのも悪いことではないが、すこし静かな話好きも時にはいい。決して機関銃みたいなスーパー講師宮川はなさんのことを・・言っているのではありません。そういえば少し話好きの日本酒の似合う男″も少なくなった。野生絶滅″状態である。もうそろそろ焼酎も飽きたし、日本酒に帰ろうかな。閑話休題(それはさておき)・・↓続く
話は微妙にそれてるようだが、都という限りは幾度も戦火をくぐり抜けてきたということを言いたいわけ。そんな中で客を回すわけでもなし・・喧嘩もせんと・・、男の子も女の子も店継がならんし、女なら一番いい女将になれるところへ嫁にやりたいのとちゃうんかいなというのが宮川理論。それともいつもロメオとジュリエット?こんな訳のわからんことを言うのが普通陽性(陽性には複合陽性と単純陽性があるが宮川女史は自分では普通にこだわっている)の京都人。だから言うてる女史が答えを期待していない。また京都人はそんなこと古い質問に答えないのが普通。路地小生ももし一軒になってたら続いていないと思う。それに対して「向かいの客は明日の客」というのが歴史から解く宮川女史の普通ながら真面目な論。二軒茶屋論というらしいが、それは?京都編indexに戻る
しかし、この景色、どこかで見たことがある・・?、テレビ「鬼平犯科帳」のエンディングにインスピレーションの曲にのせて風鈴売りが歩く江戸の夏のシーン。確かにまともな茶店の作りである。江戸時代の中期から末になって江戸の文化が我が国の都市文化を象徴するようになって来る。江戸文化の絶頂期が文化・文政時代。十一代家斉(いえなり)の時代である。鬼平が活躍するのもこの時代から寛政にかけて、ドラマにも生き生きした江戸文化が表現されている。江戸という新しい都は世界有数の大都市。中央集権国家(武家政治の)の首都として爛熟期(らんじゅくき)を迎えている様のその映像が、中村吉右衛門鬼平から今の京都の街で作られているということも大きな矛盾である。当時の江戸は水の都、その江戸の季節風景は京都にしかないという。東京のスタジオでは江戸文化の池波時代劇″が撮れないという。その矛盾は京都の街が今でも持っている不思議な力の一つである。↓続く
鬼平犯科帳はもちろん小説であるが、長谷川平蔵宣以(のぶため)は実存の人物。その長谷川平蔵も京都で暮らしたことがある。平蔵の父平蔵長谷川宣雄(のぶお)は幕府の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)の職にあり、有能な官吏として京都西町奉行に、この赴任の時息子の平蔵一家もも父と一緒に京都・千本通りあたりににあった役宅で暮らした。が父が奉行在任一年足らずで死去(*安永元年・1772)。長谷川平蔵は江戸へ帰って長谷川家の家督を継いだ。当時の京都は秀吉の時代からすでに約180年の後、鬼平はどんな町を見ていたのか。幕府は田沼時代、約14年の後41歳で父の後の御先手弓頭に、42歳(天明7年・1787)で同じく父の後火付盗賊改役に付く。というのが記録である。その時の将軍は11代家斉(いえなり)・田沼の失脚により老中に陸奥白河藩主で8代将軍吉宗の孫である松平定信(さだのぶ)公がついた年である。
火付盗賊改役というのは軍政組織上の役職。それゆえの機動力を持っていたというが、奉行所という領地経営と民生全般を掌握する組織とは対立しがち。江戸は将軍家お膝元の大消費都市。盗賊(とうぞく)たちが跋扈(ばっこ)するのは当然のこと。徳川体制が参勤交代を命じて(1635年)150年後の江戸の町は大膨張して都市文化が満開の時。粋(すい)の文化ともいわれるくらいだから、江戸育ちの無頼派(ぶらいは)若き鬼平も鄙(ひな)びた京の都の姿には失望したことだろうと思う。やはり徳川官僚として働くには江戸(都)でなければと思ったことだろう。商業主義の田沼政治からから寛政の改革の松平定信へ変わる政治の大変動期に官僚として居合わせた。その頃の江戸の文化は池波正太郎が小説でイキイキと描いている。↓続く
上方(かみがた)というのは江戸時代に大阪・京都など畿内地方を言った。天皇の住むところと言う意味である。江戸時代特有の言い方。当初江戸は文化が未熟なため京都・大坂文化が目標だったと言うが、必ずしも尊敬していたわけではないようだ。しかし首都に吸いあげられるよう人は集まり、江戸時代中期から後期、特に文化・文政の頃になると江戸文化のほうが遥かに優勢となる。江戸の人は腹の底では上方の人をあざけってぜえろく″などと言っていた。ぜえろくとは丁稚小僧の意味である。消費都市ですらなくなった京都はこの頃もっとも縮小していた。古都と言われるのは実は都であったこのころが最もふさわしい。風光明媚な観光地であった。鄙(ひな)の文化の都だった。それ以後、今でも東京の人が関西人を好きになったり関西での勤務を喜んだりすることは無いのと同じである。これほんま。京都編indexに戻る
上方武士道(ぜえろくぶしどう)というのは司馬遼太郎の小説。幕末朝廷の密命を帯びた公家侍が大坂の町娘と刺客に襲われながら東海道を下って行く小説。主人公は高野少将、貧乏公家剣客。昭和30〜40年代にはテレビでもやっていた。鶴田浩二も演じていた。この小説、今は出版社の都合で花咲ける上方(かみがた)武士道″に改題。徳川体制に蔑まれた者の強さがテーマの痛快小説。だから、わざわざ司馬遼太郎は上方を"ぜえろく"と呼ばせているのに・・・。東京の人の温かい配慮?で毒は消す?ご存知のように司馬遼太郎は専ら大阪(*東大阪)で執筆活動を続けた人。→司馬遼太郎記念館/京都編indexに戻る
京都盆地中でもっこりした丘が平安京を作るときの中心を決めた。それが船岡山。大内裏の北、東西の中心にほぼ位置する。船岡山は応仁の乱では戦略的に都合のいい高さで西軍の城となった。付近一帯西軍の陣地となった。西陣の名の起こりである。標高としては110メートル程度だが、実際は丘という名の通りである。今は街中の貴重な自然林として保護されている。京都市の公園(京都市都市公園1号との記述がある)になっている。土地は大徳寺の所有。この丘の上に三等三角点がある。それをみれば平安京の南北軸は東経135度44分40秒くらいということになるわけ。→*大徳寺
この船岡山にあるのが建勲(たけいさお)神社、秀吉の時代にここを織田信長の廟地とし廟を建てた。明治天皇は、戦国時代を統一、京都朝廷に覇権を戻した織田信長をたたえ健織田社(たけおだのやしろ)を造営。それを神社に改めた。明治13年に東京の織田家(元の天童藩主)からここに遷座。建勲とは織田信長の神号。神社名はたけいさお″というが、ここらでもけんくん″でないと通じない。明治になって皆が東京へ行ってしまった後、信長と嫡男信忠の忠魂が京都へ帰ってきたわけ・・今は船岡山の上に遷座して京都の玄武の役割を担っている。→*建勲神社/京都編indexに戻る
市内北区に鞍馬口町という町がある。鞍馬口というのは鎌倉時代から室町時代に整理された京の街道の出入り口で、例の豊臣太閤の街づくりの京の七口の一つでもある。通りの名としてはこの鞍馬口(場合によっては関所)が設置されたところに由来する東西の通りのことでもある。そういうことだから鞍馬口という地名に遭遇すれば鞍馬へ行けるポイントだと錯覚することが多い。京都の地下鉄は烏丸通を通っているが、それはいいんだけど烏丸通と鞍馬口通の交差点に駅を作ったときに「烏丸通鞍馬口」を略して「鞍馬口」と名付けた。何とか口″は遠いけれどそこへ行ける″という意味だと思うから、京の七口という歴史的符牒″を知らなければつい鞍馬寺へ行くのにはここから行けば便利だろうと思ってしまう。ここで降りたのでは鞍馬へは行けません(直接の交通手段がない旨を)と口酸っぱく案内しなければならないことになる。↓続く
そういう意地の悪さが京都にはある。歴史(正しくは地史)を知らなければ理解できない。難解地名を楽しむのと同じ感覚である。ただし、それは旅行者には誤解のもとかも知れない。人を煙に巻くのではなく歴史を解く鍵である。そのためにもも少しひねって言うと、このあたり正しくは出雲路(いずもぢ)という。鞍馬の先は丹波だけれどその先は山陰道の出雲に通じる、というのも正解かも知れない。が、、謂れの根拠はこのあたり平安京が出来る前の山城盆地で古代豪族出雲(いずも)氏の本拠地でもある。賀茂川のほとりには鴨氏・出雲氏が定住し開墾していた。ここにある怨念の御霊(上御霊・ごりょう)神社も出雲氏の元は氏神であったとするのも定説である。↓続く
(写真註:毘沙門堂(山科))
山科にある有名寺院毘沙門堂(びしゃもんどう)へ行くとシーズンにはお寺の案内をしてくれる。この毘沙門堂、天台宗の門跡寺院。奈良時代(703)に行基によって・・といわれる。というだけでなく、このお寺の正式寺号は「出雲寺(いずもじ)」ですと教えてくれる。出雲氏の氏寺下出雲寺だと言う。平安時代の前期に天台宗の伝教大師が作った毘沙門天を本尊とするゆえに毘沙門堂ともよばれていた。平安遷都以前からあるお寺である。その後荒廃していたのを徳川家の援助で江戸時代に山科に再建した出雲寺が毘沙門堂門跡である。と、説明される。
(写真註:出雲路橋を下流から見ている。下の川が賀茂川(かもがわ)、もう少し下って高野川と合流して鴨川になる。画面の右端、右手に見える山の後ろ奥が愛宕山。雲が下りてきている。もうしばらくすると時雨(しぐれ)が来る)
この鞍馬口通が賀茂川を渡る橋が出雲路橋(いずもじばし)という。京都の名所の一つである。古くからあった橋ではない。街道の起点は京都寄りの西側である。賀茂川を昔はトントン跳んで渡れた。それからおおむね北に、深泥池(みどろがいけ)の傍(かたわら)を北上して岩倉を経て京都精華大学から二軒茶屋へと通ずるのが鞍馬街道である。一方、大宮通を北上して上賀茂神社から柊野(ひらぎの)別れを経て、京都産業大学前から二軒茶屋で合流する道もある。今でも鞍馬への道は花脊から丹波の美山から若狭への道でもあるが、実は静原から分かれて大原へ行く別の道でもある。京都編indexに戻る/→京都精華大学
平安京は東西に約4.5キロ、南北に約5.3キロ。平安京の中心朱雀大路は今の千本通りに当たる。概ねJRの山陰線が南北に走っているあたりと思えばいい。平安京は羅城(城壁で囲まれた都)ではないがその街並みは中国の都、洛陽や長安をまねている。右京を長安城と言い左京を洛陽城といった。都の中でも朱雀大路の西の方(右京)は早くから廃れた。ということもあって京の都の代名詞が洛陽に擬され、京洛・洛中・洛外・上洛などというようになったわけである。今でも洛″といえば京都を意味している。↓続く
大昔は平安京の西(右京)に木辻(きつじ)大路が通っていた。元来こちら右京の地は文明の地で平安遷都の前には山背(やましろ)の国の国府のおかれたところでもある。今でも妙心寺(みょうしんじ)御所の南にあたる。太秦(うずまさ)の名は古代の豪族秦氏の本拠地でもある。聖徳太子の広隆寺(こうりゅうじ)も目と鼻の先である。JR花園駅のあたりが西京極(にしきょうごく)大路、都の西の端だったことを知れば、隣は太秦(うずまさ)、もう嵯峨(さが)。嵐山も意外と近かったことが分る。まさに都の庭だ。
(写真註:妙心寺の塔頭(たっちゅう)退蔵院(たいぞういん)の門を入ってクレマチスが咲いていた。色合いから見てH・F・ヤングか?この先は枯山水や回遊式の庭園の四季を楽しめるが、ここから先の拝観は有料である。
花園上皇(95代天皇)の院(仙洞御所)を寺に改めたのが妙心寺。臨済宗妙心寺派の本山。開祖以来禅の修行を重んじる禅風で多くの塔頭(たっちゅう)を抱えているのは誰でも知るところ。ジョギングする人、自転車で通り抜ける人、車でお参りに来る人、特にシーズンになると狭い石畳を歩行者の後ろから車が迫ってくる。お寺の中までどこまででもマイカーで行こうとする人は京都観光には似合わないのだが・・。北門は一条通り、南門は丸太町通り。実はこの妙心寺あたりが当初の平安京区域の西北の端(コーナー)にあたる。そんな訳かな、と。妙心寺御所とも言われる。応仁の乱で罹災するも江戸期には臨済宗の寺としての勢いを保つ。京都編indexに戻る/→*妙心寺
一条通は平安京の北、東西の通り。現在も一条通として残っている。今の御所の西の烏丸通から西へ堀川・千本・西大路と交差して妙心寺の北門の前(妙心寺は平安京の北西の角というのは前述)まで、今はそのまま延長線を引くかのように仁和寺の南門の前を通り宇多野、山越から嵯峨釈迦堂までほぼ道なりに伸びているのも一条通と言っている。郊外に途切れずに通っているがおおむね二車線に足らないところが多い。御所の北を東西に通る通りとしては3ないし400メートル北の今出川通がその役割を果たしている。
(写真註:仁和寺本坊の庭)
好きなように項目を追加しているので読者諸氏には時代の流れが錯綜?仮に私は一条御所通り”と言っているが、洛外一条通に御所という寺が3か所並ぶ。市内側から西に行けば妙心寺、仁和寺、大覚寺となる。時代の順に言えば大覚寺が平安の始め876年、仁和寺が12年後888年、妙心寺が1337年概ね500年の後の話である。当時平安時代は平安京の中に寺は建てられなかった。極めて時代が接近する大覚寺と仁和寺であるが、仁和寺は宇多天皇(59代)の創建。出家の後仁和寺に住んだ御坊を御室(おむろ)と言った。為に御室御所ともいう。応仁の乱で全焼した。徳川時代に再建。京都の世界遺産の一つである。 京都編indexに戻る
この一条通、仁和寺を過ぎるとアップダウンがきつくなるがやがて広沢の池に出て嵯峨野に入る。ここまで来たら大覚寺まで行こう。少し北へ上がると大覚寺の門前に行く。元は平安時代初め嵯峨天皇(52代)の離宮。桓武天皇(50代)の皇子嵯峨天皇の皇女にして淳和(じゅんな)天皇(53代)の皇后(正子内親王)が真言宗(弘法大師)の寺院に。淳和天皇の第二皇子恒貞(つねさだ)親王が廃太子(承和(じょうわ)の変・842)の後、仏道に帰依して初代の住職(開基)となる。写経の道場としても知られる。また生け花嵯峨御流の家元でもある。
大覚寺が政治的に登場するのが鎌倉時代後期、亀山(90代)・後宇多(91代)上皇がここで院政をしく(*1301)。大覚寺は嵯峨御所と言われる。さらに時代が下るが南北朝時代、南朝の初代となる後醍醐(ごだいご)天皇(96代)の系統に繋がる因縁を持つ。この皇統を大覚寺統という。後宇多上皇院政から約30年後に南北朝時代が始まる。混乱の始まりだった。京都編indexに戻る
臼井喜之介(本名喜之助・昭和49年没)は京都の人、詩人、兼出版人。大覚寺境内の大沢池の東のはずれほとりに詩の碑がある。
花を惜しむこころはいったい何なのだろう いくつ齢をかさねたら心はしづまり ひとり酒汲む静寂に住むことができるのか 今日も嵯峨御所から花信が舞ひこんできた″
嵯峨御所とは大覚寺のこと。もちろん花信(かしん)とはサクラの開花。↓続く
大覚寺のサクラを誰でも見ることは出来る。大覚寺のサクラは信仰なのだろうか。それとも文化なのだろうか。冷ややかに見ればただの造園であり園芸であるともいえる。そんな見方をすることも間違いではない。京都に住んでいたって、住んでいることに誇りを持たなかったら京都の人になれない。どこに住んでも同じことだけど、自分の住んでるところに誇りを持つことは大事なことである。それは観光とは違う。観光とは別の市民感情を大切に出来る町でなければならない。観光資源の多さを言うのではないはずだ。市民の誇りを育てられない町を田舎と言う。誇りを持てない人を世間では田舎者と言う。↓続く
戦後ほぼ日本全国普通の町(負けた焼野原)になった。骨の部分は残ったわけだから、何に向かって立ちあがったかと言うことが、その後のその町の肉の部分を作っている。その中での失わなかった市民の誇りが血になっている。希有な例であるが、都会でありながら京都は京都であることを誇れることが出来た。それは戦争で焼けなかったことだけではない。京都を誇りに思って暮らしている人が多くいたことだろう。臼井氏、出版人として昭和25年に雑誌月刊「京都」を発行。雑誌は今も続いてはいる。
ついでながらこの年、京都に豪雨あり、京都市長に高山氏、京都府知事に蜷川(にながわ)氏、京都の人山本富士子が第1回ミス・ニッポンに。三条大橋も完成。金閣寺が放火のために全焼。ジェーン台風が京都をも襲う。台風とは別に京都駅全焼。大覚寺が真言宗から独立したのもこの年という。京都市の人口110万人、戦後京都の始まりの年か?→*月刊京都(白川書院)/→*金閣寺
戦後5年を経て、観光ということが蘇(よみがえ)った年でもある。観光というのは他郷のことである。他郷の風物に接し、自分の人生を高めていく。風光明媚(ふうこうめいび)、名勝・旧跡は我が国津々浦々にある。また江戸期の封建領主は全国に多くの特色のある都市を作った。大小あってもそれぞれの都市に歴史と文化がある。都市は東京だけでもないし、もちろん京都に限らない。しかし、焼け残った京都という都市が育んだ波動を感じるためにはいやでも京都に足を運ばなくてはならない。来る来ないはあなたの自由だけど、来れば京都観光であり、京都への旅でもある。ここへ来れば空気も水も暮らしも文化である。日本人の心に沁みこんで日本の心を育てることのできる都市として京都という都市が果たす役割は大きい。いつの時代も観光論は真摯なものがあった。それが旅というものであり、観光である。↓続く
これまでは一般論である。苦難の旅から新幹線や旅行業者や観光業者に世話になれる時代になってしまった。しかし、はっきり言えば京都は物見遊山の地ではない。観光バスでガイドさんの案内にぞろぞろついて行くものではない。ソフトクリームを舐めながらがやがや歩くものでもない。数十年前にもそんなことを言ってた人がいる。蜷川虎三氏は終戦時の京都帝国大学経済学部教授。昭和20年代京都府知事を務めた(昭和25年(1950)-1978)。功罪云々を言われた人ではあるが、現実には7期28年も戦後から蘇る京都府の知事を務めた。革新知事の走り(草分け)である。京都府の教育行政に特色を出した。観光行政の責任者として京都観光の次元を高めて欲しいと言っていた。京都人の京都を愛する気持ちを理解できた政治家だった。↓続く
蜷川京都府・高山京都市には確執があった。当選したのも同じ年なら、二人とも革新系地域政党のリーダーであり弁護士だったり京大教授だったりである。今の大阪の走りである。それでもほぼ同じスローガン文化観光都市京都がそれでもその時から始まった。京都は古都である。古都であるというのはただの地方都市と言う意味だった。でも、誇れる文化があったので文化都市となった。戦後の復興で観光が加わった。掛け算の結果、文化観光都市になった。多くの文化都市を抱えながら京都府内で京都市だけである。それから60数年、知事・市長ともに観光行政はずっと二重行政である。観光行政は市民の衣食住すべてに関わっている。長い間に京都は観光を誇りに思うように慣らされた。↓続く
観光都市とは何なのか。観光を一番の産業とすることなのだろうか。そもそも文化と観光は相いれるものだろうか。何よりも観光都市の定義がずっと揺れている。拙者路地子(ろじこ)は思う。国際文化観光都市京都というとき、漫然と聞いてはいけない。国際文化都市と国際文化観光都市では方向が違うのだ。同じく市民にとっても心地よい言葉であるが、今までの文化観光都市にまだ国際を掛けるということなのだ。国内旅行者だけでなく海外旅行者でも一番の都市にするという宣言なのである。そのことを市民の誇りにしようと呼びかけているのである。単に行政が観光協会のマネをするのではない。そういう街を作ろうということなのだ。行政方針であり、そういう街づくり(都市計画)をするということなのだ。市民には国内観光の筆頭でも十分である。↓続く
観光ということでは京都はミラクルに掛けてきた。府や市の観光政策は実は経済政策でもあることは理解できる。経済政策もそれに頼ってしまったら簡単かもしれない。しかしそれが経済政策である限り、府庁や市役所の中でも自然の勢いで文化財も、街づくりも、交通も場合によっては教育や労働施策すらも観光行政にすり寄っていく。観光資本は海外資本だったり、東京・大阪の資本であることがほとんどで、極端に言えば京都資産はそれらに土地を売って暮らしている。市を上げて外国人の物見遊山に辛抱せよと言われてるうちに売ってはいけないものも売られる。貴重な歴史資産も経済には勝てない。それどころか辛抱ばかりしているうちに市民の衣食住の文化は近いうちに完全な観光文化になってしまうだろう。↓続く
花街ですら着物を着て歩いているのは外国人観光客になってしまった。京都には観光のかやくが多い。史跡・名勝、衣食住文化、何もかもを観光資源に供出してしまおうとしている。観光が肥満すれば京都が肥満するのである。そのかわり歴史も文化も都市も産業も市民の住居も脛(すね)をかじられて少しづつ痩(や)せていく・・ことを心配している。行政は住んでいい町を目指すべきである。いっそうのこと京都移住を勧める都市であるべきだ。住んでみたい街を感じさせることが出来なったら、ただの観光肥満都市である。京都で暮らすことを誇りに思っている気持ちこそが京都の血であると言った。メタボリック症候群ではないが、太っているだけでなく血が滞っては命にかかわる病気が隠れているのである。「路地ろぐ」の1ページ目で路地子の観光論をあらかじめ披露しました。ご了承の上、次へ進んんでください。京都編indexに戻る
堀川通から今出川通を少し東へあるのが白峯(しらみね)神宮。旧の官幣大社(かんぺいたいしゃ)。白峯宮(しらみねぐう)ともいう。白峯とは四国讃岐(さぬき)にある白峯宮のこと。白峯大権現を祀っている。白峯大権現とは平安時代の崇徳上皇(すとくじょうこう/76代・1119-1164)のこと。保元の乱の政争に敗れ上皇ながら讃岐に流された。700年の後幕末の頃121代考明(こうみょう)天皇が讃岐で祀られる上皇の神霊を京都に移すように幕府に命じた。後、明治天皇がその意を継ぎ、慶応4年(1868)この地に白峯宮を創建した。ご神体は崇徳上皇のご神像である。後に淳仁天皇(じゅんにんてんのう/淡路廃帝といわれる)を合わせて祀る。神宮(じんぐう)の号を持つ。↓続く
この神社、スポーツの守護神として今は蹴鞠の神社、ひいてはサッカーや球技の神様としての方が有名で、この頃は神社ももっぱらそちらで売ろうとしているように見える。蹴鞠の行事は時々テレビでも流される。おかげで修学旅行生やサッカークラブのお参りもある。それは神社が蹴鞠の宗家である「飛鳥井(あすかい)家」の跡地に建造され、公卿飛鳥井家の守護神「まりの神様精大明神」の祀りも引き継いだことによる。本殿の崇徳上皇との関わりではない。路地小生(ろじこ)としては、白峯の神の項を起こしたのは、崇徳上皇の怨霊(おんりょう)をはじめとする京都人の思いの方を語りたいと思ったからである。↓続く
怨霊(おんりょう)とは祟(たた)る死霊のことである。人間の魂は肉体と一体のものであるが、肉体だけが突然滅んでしまうと、魂は行き場を失ってしまう。魂が気となり霊となっても、なお憎しみや怨(うら)みの強い思念(しねん)が怨霊である。困ったことに、生きている人に災いを与える。上皇が亡くなったのは平安時代末、12世紀半ばのことである。それからずっと遠い四国から京都に怨念を持つ魂として認識されていたということだ。それを京都へ戻して、神様として祀る。怨霊がしずまり、逆に京都を守ってくれるというのが怨霊に対する思いである。この考え方は我が国における神の姿の一つである。京都の歴史や京都の人を考えるときのキーワードの一つである。↓続く
怨念は何もできないと思うのは現代人の気持ちである。死んだ人は生きてる人を恨むことはできない。生きてる人は生きてる限り死んだ人でも恨むことができる。死んでしまった人のことは決して恨まないようにするから、死んだ人も恨めないことを恨まないでほしいと・・・思うのが凡人である庶人の気持ちだ。回りくどい言い方を許されたい、冥福を祈るということはそういうことだ。実は怨念は死んだ人にはなく、生き残った人にこそあるわけだ。それは高貴な人だけでなく貴族でも庶人でも同じだ。日本全国にある。都の専売特許でもない。その中で生き残った人(勝者)も既に何百年、45代も後の考明天皇に祟るわけもない。幕末ということは朝廷に陽が差し込んだ時期でもある。考明天皇は京都という都に祟った白峯の神を京都の守り神にしようとしたのであったと。そのためには京都に移ってもらわなければならなったわけである。↓続く
崇徳上皇(76代・1119-1164)は、鳥羽天皇(74代・1103-1156)の第一皇子。母は藤原璋子(たまこ)。璋子の父は権大納言藤原公実。璋子は早くに父をなくし父の従兄弟白河法皇(72代・1053-1129)に育てられた。白河帝の孫・鳥羽天皇に仕えて18歳のときに崇徳帝を生む。父の鳥羽天皇は満年齢で16歳であった。1123年鳥羽天皇から位を譲られ3歳で即位。1141年父の鳥羽上皇に迫られ異母弟(近衛天皇)に譲位。在位はほぼ20年ながら23歳の若き上皇となる。新院と言われた。↓続く
崇徳上皇の悲運の第一は、父の帝(みかど)鳥羽帝から疎(うと)まれたこと。自分の子ではないという。白河法皇の種(たね)であれば自分の叔父ではないかという深い疑念があったことが資料に残っている。白河院は多くの女性と関係を持ったことで知られる。平の清盛ですら白河院の子ではないかと当時言われたと平家物語にもあるくらい。同じ白河上皇の流れながら、鳥羽上皇は皇統を自分の子に継がせたいという気持ちがあればこその話である。今、院政の時代が始まった。摂関政治というのは朝廷を外祖父が牛耳る母系の政治である。母親が誰であるかが皇統を継ぐ第一の要件でもあった。それに対して院政とは父系の政治である。父から自分の子へ強力な権力移行を前提としている。↓続く
歴史学研究において院政というのは大きな特質を持っている。白河上皇によって始められた院政はもちろん律令国家の法体系にないものである。政務を臣下の大臣たちの補佐するところに任せる摂関政治から、いきなり天皇家の家長が政務決裁権を掌握するためには、天皇の上に立たなければならなかった分けである。それではじめて摂関家の束縛から独立できる可能性が見出されるわけである。それには独立した私有財産(領地)と、政治を動かす能吏と院専属の武力が必要である。摂関政治の下で冷遇されていた中貴族と北面の武士らが台頭してくるわけである。統制のとれた武士集団が源氏や平家であり、これらが院に仕えることによって強力な権力となっていくわけである。↓続く
長く絶大な力で院政の時代を築いた白河上皇は崇徳帝10歳のときに崩御。新院鳥羽上皇が治天の君となる。父鳥羽院に疎んじられた崇徳帝とその母(中宮璋子・待賢門院)は大きな後ろ盾を失い悲運に向かって大きく傾斜していくことになる。上皇に疎んじられた力なき若き帝(みかど)である。しかし骨肉争っても、勝敗によって歴史が変わる。鳥羽上皇が亡くなった保元元年(1156)、同母弟(後白河天皇)との戦いになる。摂関家だけでなく、ならばとばかりに源氏・平家ともどもの戦いになる。それが保元の乱。↓続く
『鳥羽の寵姫(ちょうき)を得子(とくこ)といひ、美福門院と号す。皇子体仁(なりひと)を生む。崇徳をして養って太子となさしむ。四歳にして禅(ゆずり)を受く。これを近衛帝となす。帝崩ず。崇徳位に帰るを希う。美福は・・・乃ち密に鳥羽に勧めて、崇徳の同母弟雅仁(まさひと)を立てしむ。これを後白河帝となす。朝野(ちょうや)駭然(がいぜん)たり。崇徳憤恚(ふんい)し左大臣藤原頼長を召して、これに語るに情を以ってす。・・保元元年七月法皇(鳥羽)崩ず。即夜これを葬る。上皇(崇徳院)遂に兵を挙げ白河殿による。・・・』
勝者は後白河天皇方、関白藤原忠通(ただみち)、平の清盛(きよもり)、源の義朝(よしとも)・・。敗者はそれらの兄弟父子・あるいは叔父甥。敗者の上皇は剃髪して弟の仁和寺のご門跡(覚性法親王)にも拒絶された。崇徳上皇は上皇の身でありながら讃岐に流される。仁和寺から讃岐へ送られた。上皇37歳。3年後に平治の乱(1159)。先の乱の勝者のうち源氏が滅ぶ。崇徳上皇45歳(1164)都への帰還を願いつつも、朝廷の措置は冷酷。死後も朝廷と都に祟ることを宣言したまま没した。高倉天皇(80代)は崇徳院の号を追贈する。850年前のことである。京都には850年も怨念が続いている?
結局は一族を割りながらも平家の隆盛が始まる。後白河天皇は平治の乱の乗り越えたが、以後平家の専横を許す。日本歴史の上で初めて武士が朝廷の政治に参加することとなった。が、平家も瀬戸の海に滅び、やがて明確な武家政権である鎌倉幕府の時代へ続く。その後の歴史を明確に知ることができる我々は、京都朝廷は平安時代の終焉とともに以降約600年、明治維新まで実質的専制君主的な権威を取り戻すことがないまま京都に君臨した″という見方も出来る。それが1200年の都の掛け値なしの姿だともいえる。京都編indexに戻る
崇徳院(すとくいん)は京都に祟る神の一人である。しかし、崇徳院と言えば歌で思い出す人もいるだろう。鳥羽上皇院政の時代、崇徳上皇は新院と呼ばれ、近衛帝(3歳で皇位についた)の上皇であった。それでも実権を持ったことのない崇徳上皇は和歌に没入する。歌集の撰を行う。院の歌も百人一首に残る。瀬を早み岩にせかれる滝川のわれても末に逢わんとぞ思う″である。この崇徳院が崇徳上皇である。歌の解釈はその道の人に学べばいいがこれは明らかに恋の歌である。この後、平家が台頭する乱の一方の当事者であり、また闘いに敗れ讃岐に流される悲運にあう訳である。讃岐に流されて後は歌より仏道に精進した。写経に明け暮れたとも言う。↓続く
多くの写本を京都の寺に納めたいと朝廷へ送ったが、同母弟後白河帝に拒否され送り返されたという。それから京都朝廷を恨んで夜叉のようになったという。鳥羽院の愛に包まれた皇子が院にまで上り詰めて讃岐で夜叉のように亡くなるまで、歌と仏道と二つの道があったがどちらも上皇を救えきれなかったようにも見える。歌は後の世に残った。そのおかげで名前は落語にも残ることになった。落語「崇徳院」である。百人一首の「瀬を速み・・」である。恋の歌である。上方でも関東でも演じられる。崇徳院の悲運の運命とは無関係であるが、落語では大作のうちに入る。崇徳院と言う名前が残ったことにもなる。京都編indexに戻る
上七軒(かみしちけん/地元ではかみひちけん″と言う)は北野の東。天満宮の端で茶屋を営んでいた。往古は七軒茶屋と称していた。あぶり餅やみたらし団子を商っていた。秀吉の権力が華やかな頃、北野の大茶会の休息所だったときに地の名物のみたらし団子を差し上げたところお気に入りで・・。みたらし団子の販売権と山城国内のお茶屋株をとを与えられた。みたらし団子より値打ちのあるのがお茶屋株″の総元締め・・。お茶屋というのはいわゆる色茶屋″でやがて遊女商売も認められ上七軒のお茶屋街を形成していった。徳川体制に入っても京都所司代板倉候からお茶屋株を免許されたという。↓続く/→*上七軒
徳川幕府は、島原以外に遊女を置くことを禁止していた。が、自然のなりゆきとして、やがて各地に「新地(しんち)」が設けられるようになってくる。特に祇園界隈の発展は著しかった。それら新地も遊女の数を限って島原同様の営業を認められるようになった。上七軒も江戸時代、宝暦(ほうれき)年間、8代将軍吉宗の長男9代将軍家重(いえしげ)の時代に江戸の吉原に女芸者(おんなげいしゃ)というものが誕生したという。京都でもその後になって、芸者(げいしゃ)を置くことも許可された。上七軒のお茶屋は「客の善し悪しの取りざたはしない」などの掟を定め、秀吉の時代からのお茶屋の格式と伝統を守ってきたという。↓続く
(写真註:上七軒の現代のたたずまい。料理屋が並ぶ。)
もともと芸者(げいしゃ)は遊女の中で芸に秀でたものである。歌舞音曲他の諸芸は遊女のたしなみでもあるが、その中でその歌舞音曲の才だけで客に侍(はべ)ることを宣言するものを女芸者といった。当時芸者の仕事は男であったからだ。やがて、やはり芸者は女に限るようになってきた。遊女と一緒に、または別に宴席を務めるのを業とした。公許の廓の芸者から、町へ出て来たものを一般に町芸者という。歌舞専門の芸妓(げいぎ)を芸者という言う。京都ではそれを芸妓(げいこ)と言う。島原の遊郭に限らずいわゆる新地と言われる遊所には、娼妓(しょうぎ・遊女のこと)と芸妓(げいぎ・芸者のこと・娼妓とともに法律的用語)がいた訳である。上七軒もずっとその歴史の流れにあるが、秀吉の時代からのことに因んで紋章に五個のみたらし団子を用いている。もちろん現在は芸者衆だけである。娼妓と言われる人は存在しない。今の繁華街とは離れているが京都商工業の中心地だった西陣に近かったせいか京都五花街の一つとして生き残っている。↓続く
(写真註:左が上七軒の紋・右が祇園の紋つなぎ団子、祇園甲部は中に甲の字が入る)
みたらし団子は本来5個、それは下鴨神社の御手洗(みたらい)祭りのときに氏子が備えた団子ということ。それが語源だということだ。一串に5個の団子は人型らしい。その説に乗れば上が頭で少し開いて四肢、5個が正しい。上七軒は団子5個である。なお関東地方では団子4個が標準だということ。今は串の都合で4個が多い。因みに祇園甲部と祇園東はつなぎ団子、祇園甲部には中に甲の字が入る。先斗町は千鳥、宮川町は三ツ輪のそれぞれ紋章。というところ。京都散策の時にはせめて提灯をご覧ください・・ →*祇園甲部/→*祇園東/→*先斗町/→*宮川町 //京都編indexに戻る
桓武天皇は平安京造営のとき大将軍を祀る堂を四方に置いた。大将軍とは陰陽道で方位の吉凶を司ると言われる神である。この西の方角版ががこの一条通の北にある大将軍八神社である。大将軍堂から大将軍社としてこのあたり元大将軍村の信仰を集めていた。この大将軍というのは牛頭天王(祇園社の神)とも牛頭天王の息子とも言われる。神仏習合のときは大将軍自体がスサノオノミコトと同一視されていた。明治の神仏分離令のときにご祭神をスサノオノミコトとその八御子にに改め大将軍八神社となった。後述する祇園の八坂神社と同じ道をたどった。このあたりを大将軍という。→*大将軍八神社
一条通もここら辺では大将軍商店街と言うがこの振興会が「一条妖怪ストリート」というのを展開しているので商店街としての名前を紹介しておく。大将軍八神社やその神様とのかかわりは分からない。そこの通りの京都魚苑さんの金魚・鯉のいきがいい。が、一条通、この大将軍商店街を東に行くと打って変わって大きな商店街に出る。北野商店街である。一条通を外れて千本中立売につながる。このあたりは西陣が賑わった頃の台所として繁盛した。千本通りの往時の賑わいを私は知る由もないが、このあたりには全国版の大銀行の支店がいまだ営業していることで納得させられる。→*一条妖怪ストリート→*京都魚苑/京都編indexに戻る
千本京極といわれる殷賑な地域に入る。ここでは京都市電(京都電気鉄道)が明治30年代から、北野天満宮から千本中立売・堀川中立売を経て京都駅七条まで通じていたその賑わいをご紹介したい。当時の京都市電の写真資料が北野商店街のサイトに詳しい。値打ちのあるものだからあえてコメントして紹介しておきます。→*北野天満宮/→*北野商店街/京都編indexに戻る
ここを上がったところにあるのが千本釈迦堂。ここ大報恩寺の本堂は国宝、山名氏の西陣の近くにありながらあのいつ終わったのかも分らない応仁の乱でも焼けずに残った。都会としての京都はそれからも何度も大きく焼けているから尚更のことである。当時の京都の三分の一も焼けてしまったという中でのことである。それ以前の建物であり必然的に国宝である。それにしてもこの千本釈迦堂、庶民の信仰の厚い寺である。そんな歴史が市民を強くしたのかもしれない。
焼け残ったお守りが阿亀である。お亀というのは鎌倉時代初めこの大報恩寺の本堂建立の棟梁長井高次の妻阿亀のこと。棟梁の失敗をお亀のアイデアと命を代償に無事棟上げすることが出来、且つ前段で言ったように焼け残ったということで建築業界の信仰を集めている。建築の棟上げでこのお亀(お多福)を祀る根拠だということだ。ただこの話、聖武天皇の時代の飛騨高山の国分寺七重の塔の「枡組(ますぐみ)」にも同じような話が知られている。こちらは娘だ。棟梁は娘を殺したという。何故殺さねばならないのかわからない。いずれにしろ、立派で火災にも合わないことは建築者の願いでもあることから、お亀をたたえる像には、京都の建築業の他、錢高組・飛島建設・清水建設・大林組などの大手ゼネコンの寄進の名も見えた。→*錢高組→*飛島建設→*清水建設→*大林組
それにしてもこの“お亀”というか“お多福”というのはあまりにも日本文化、芸能、信仰にも密接な名前はない。起源はいつ何などというものではない。神様でもないのにしかしながらこれほどの縁起の良さは吉祥天女を凌ぐ。神様は美形でなければならないが、おかめ・おたふくと言えば愛らしくて親しみはあるが決して姫の様に描かれることのない世界だ。平安時代はああいう顔が美人の代名詞だったなどという学説もあるが、少し無理があるように思う。骨相の問題だと思う。バランスのとれた日本人の大多数平均的人相だった・・のだと思う。今も同じである。進化の原点でもあり到達点でもあると考えるべきである。そうでなければ愛されることはないのだから。愛すべきおたふくをおたやん″と言う。京都編indexに戻る
写真は大極殿遺址(※だいごくでんいしと読む)の碑(千本丸太町角北西少し)。路地を入った児童公園の中にひっそりと立っている。園児たちが荷物を置いていた。園児の時からこんなお墓みたいなものを気にしていたら京都では暮らせない。京都は表通で暮らしている人は少ない。路地の空間に暮らしがある。表通り情報は他のガイドブックでどうぞ・・。
元の西陣織会館・100年になるそうだ/今出川通にある
大極殿遺址(だいごくでんいし)は千本丸太町にある。今は内野児童公園。内野(うちの)というのはいつも内裏の跡の地名。だが何もない。資料館の案内があったので、少し離れてるが今出川大宮の京都市考古資料館へ回って見た。立派な古典的な建物だった。大正3年に建てられた旧の西陣織会館ということだった。床板に鉄筋コンクリートを使って近代式建築の走りとして建築史の上からも貴重らしい。設計は当時京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授の本野精吾、施工は清水組(今の清水建設?)とあった。当時から建築に強いスーパーゼネコンだった。大きな歴史は形がないが、まだ小さな歴史はそこかしこで見える。歴史を社会科だと捉えると歴史が分らなくなる。見方によっては古い歴史も新しく感じられるかもしれない。→*京都市考古資料館→*京都工芸繊維大学京都編indexに戻る
東西の主要な道路の一つ。東は鹿ケ谷(ししがたに)、西は嵯峨嵐山まで通ずる。中心部では二条通より北へ三筋。御所(京都御苑)の南側の道路と覚えればいい。市電(丸太町線/(東)天王町から(西)円町まで)を通すために拡幅・改築された通りである。二条城の北、智恵光院通(ちえこういんとおり)のところで、上下(南北に)にずれているのがその名残という。また、平安京の政庁(内裏)は千本通(せんぼんとおり・ほぼ当初の朱雀大路に重なる)を中心に左右となっていたので、この千本丸太町が旧政庁の中心ぐらいになる。ということで少し上がったところに大極殿遺址(だいごくでんいし)の碑があるところとなる。
(写真註:東三本木通/右手前に山紫水明處の石碑と玄関がある。向こうへ進むと立命館大学草創の地・清輝楼の跡がある。しかしながら、今は京都の普通のたたずまい。遊郭の跡とは思いづらい)
ここの鴨川にかかる橋はそのまま丸太町橋という。その西詰め近いところにあるのが江戸期後期の詩人であり歴史学者の頼山陽の旧邸(山紫水明處・さんしすいめいしょ)のところ。御所の東に位置し鴨川と比叡山を望みまこと京都の景観を代表する。この南北の通を東三本木通と言う。その西に西三本木通もあわせ回りは閑静と言われる言われる住宅街である。実は、明治の初めまでは京都の花街の一つだった。舞と踊りに秀でて芸者遊びに向いた一角であった。嶋原の管轄下で栄えたとある。げんに幕末の芸者幾松と勤王の志士桂小五郎とのロマンスは有名な話である。が、明治に入ってからは祇園甲部に合併されたりしたが・・急速に早くに消滅した。ということで今は静かな住宅街になっているといういう訳である。↓続く
(写真註:頼山陽の山紫水明處の玄関。石碑があってもわからないかも)
頼山陽(らいさんよう/1780-1832)は『日本外史(にほんがいし)』の作者である。幕末の尊王攘夷運動のきっかけになる歴史観と歴史家として大きな存在である。恥ずかしながらこの「路地ろぐ」で外史子(がいしし)″として出てくるのはこの日本外史の引用です。山陽は大阪で生まれ広島で育った。儒者として仕えていた広島藩を脱藩。そのことで廃嫡されたのち、京都へ出奔(1811)、三本木に居を構え塾を開く。それから約15年かかって日本外史という日本の政権に関する歴史書を完成させた。とある・・徳川氏は朝廷の下の(仮の)武家政権であったことを教えてくれた。まさに地球が太陽の周りを回っているような宇宙観に匹敵する。歴史とは詩でもあった。この項、参考までに・・注釈しました。↓続く
(写真註:女紅場跡の碑/後ろのビルは京都の名建築の一つ旧京都中央電話局上分局(大正12年(1923)建築・昭和34年廃局)/今はスーパーのFRESCOが使っている)
同じく丸太町橋の西詰、南側に「女紅場址(じょこうばあと、京都ではにょこうば″という方が多い)」の碑がある。女紅場というのは女工場″の事。女子の教育授産施設を言う。読み書きやそろばんなど、裁縫や手芸の技術などを教えた。明治の初め4年(1872)にここに設置されたのが「新英学級及女紅場」、主に士族以上の子女の教養と技芸の教育を行った。NHKのドラマが好きな人は「八重の桜」の主人公山本八重がこの学校で活躍していたことを思い出すかもしれない。官立の女子教育機関、これが京都の女学校の始まりである。↓続く
京都では女工場(じょこうば)とは言わない。女紅場(しかも、にょこうば″という)と表記される。明治6年(1873)、上京区第三十区(柳池(りゅうち)小学校区)の区長が民費での設立を願い出て許可された。柳馬場押小路下ル(やなぎのばんばおしこうじくだる)の民家に女紅場を開設した。教養科目の他、職業科も置かれた。市民の日常生活に基づいた実用的な教育を目的とした。市中女紅場と言われるものであり、その他にも市中に多く作られた。↓続く
女紅場(にょこうば)は遊郭にも作られた。同じ明治6年(1873)には島原・祇園にも。全ての遊所にあった。芸妓・娼妓の習い事でもあったが自立のためのものだったともいわれる。女紅場経営は市民や組合の力で運営されていたこともあり、その後、市内女紅場も遊女女紅場も女学校や技芸学校などの職業学校になっていく。明治の中ごろには、女工場も女紅場という名前もほぼなくなっていった。祇園の八坂女紅場学園などの名称にかろうじて残っってはいる。女紅場というのは女性の自立を目的にしたものであった。封建制度が崩壊したとはいえ、長きに渡り町衆主体で自治を進めてきた都市(まち)ゆえの教育観であったことは多くの研究者が言うことである。路地ろぐではにょこうば″と読むというのがテーマである。↓続く。
(写真註:現在の京都市立堀川高校・四条堀川を一筋上がったところにある)
明治19年に中学校令が制定された。12才以上の小学校卒業者を対象とする。高等中学校は全国に5校、尋常中学校は各府県に1校が原則で設置された。明治32年に大改正が行われ高等女学校令として中学校令から分離された。明治4年に開校した「新英学級及女紅場」は中学校令により「京都府高等女学校」となり、高等女学校令の後、「京都府第一高等女学校」(明治37年(1904)・※京都府立鴨沂高等学校に)となった。なお、この時に「京都府立第二高等女学校」(※京都府立朱雀高等学校に)も設立された。また、この後明治41年(1908)には「京都市立高等女学校」(※京都市立堀川高等学校)も開校した。京都市内の伝統校を引っ張る高等学校につながっている。官立の明治の高等女学校についての紹介です。京都高等女学校事情へ/ 女学校シリーズB平安女学院へ //→*京都府立鴨沂高校/→*京都府立朱雀高校/→*京都市立堀川高校//京都編indexに戻る
丸太町通を少し西へ行くと烏丸通(からすまとおり)。そこを上がったところにあるのが平安女学院。この場所は実は路地ろぐにとっても重要なポイント。室町時代の最末期、信長の天下が固まりつつあるときの「旧二条城」の跡と言われる地域(別項参照されたい)。現在の府庁や第二日赤病院の東隣に隣接する一等地にある。この平安女学院は私立で最も伝統ある女学校である。元来大阪の川口居留地に出来た学校(明治8年・1875)。大阪にあったときは照暗女学院(英語名、セントアグネススクール)。明治28年(1895)に京都に移転、平安女学院として再出発した。↓続く
(写真註:下立売通に面した現在の平安女学院中学・高校の校舎。右(烏丸通側)に見えるのがセント・アグネス教会の建物)
平安女学院の一角に聖アグネス教会や有栖館(旧有栖川宮家の遺構)などを含む。ともに京都市の有形文化財に指定されている。大正4年(1915)に平安高等女学校となる。最初に生徒にセーラー服を着せた学校でもある。平安高等女学校は戦後平安中学校・高等学校として続いている。ミッションスクールとして京都一の名門である。現在は幼稚園から大学まで。平女(へいじょ)と言う。京都の女学校の気風は高等学校に引き継がれている。高等学校こそが教育だと言う学者さんがいる。18歳までにその人の全ての骨格が出来、かつ人としてもほとんどの器量が出来るという。中学・高校にいい教師を送ることは本当に大事なことだと思う。学校教育も歴史に学ぶべき時期に来ているのではないだろうか。↓続く
女学校の特色はその地の女子の訓育にあった。始めは貧しいものや社会的に地位の低い女子の授産であった。普通教育になっていい母やいい女を作ろうとしたその役割は、今は大学の役割になっているのかもしれないと思う。けど、今はまた就職(授産)のための学校に戻っている。就職率が高いことは受験生を集める最大の売りである。もともと京都の女学校は京都の女子のためのものである。全国方々から京都の大学を目指して来るのもいい。でも京都の大学を目指すなら、少しはその土地が好きになってからにしてほしいと思う。頓珍漢な女子学生に乗り合わせたりすると、つい教育のことを考えてしまうことがある。京都高等女学校事情へ/女学校シリーズB京都女子学園へ/京都編indexに戻る
平安京大内裏朱雀門の前の道、都の構造上中心南北に通る朱雀大路についで広い大路だったと言われる。50メートル程度あった。朱雀門の前に東西幅80メートル南北幅50メートルの広場が形成されていたことになる。平安京の政治的広場と言うべきもの。都での閲兵式など朝廷としての権威を都の人々に知らしめる目的であるのは言うまでもない。
この二条大路も平安時代末期から徐々に、応仁の乱により荒廃していた。天正年間安土桃山時代の織田・豊臣政権の勢いで再整備された。東は東山の永観堂まで達していた。柳馬場付近にはわが国最初の公許の遊郭までも誕生した。徳川体制に入り、二条大路に二条城を築造したことから、メインストリートとしての機能を失い、かつ都は一気に縮小、この二条通の南北に限られるようになってきた。二条通の北を上京、南を下京と呼ぶようになっていた。
今も岡崎から寺町通(京極大路)から堀川通(現二条城の正面まで)ほぼ一直線に通りは通っている。今歩いて見ると、道幅も狭く、ほぼ街中は一方通行である。江戸期の薬種問屋の名残か漢方薬屋や薬の神様の祠などが残っている。という程度である。秀吉の頃、柳の馬場にあった遊郭(おそらく最初の遊郭・島原の元)はその後六条に移転。京都の現在の都市計画としては二条通りの機能は約250メートル南の御池通に引き継がれた格好になっている。京都編indexに戻る
鴨川の水で顔を洗うと綺麗になる″と言われた京都だが、鴨川の水で顔を洗う人も産湯を使う人もいなくなってしまったわけだ。京都は加茂川や桂川の砂で埋まってしまったダムの上に出来たような地面だから、必要な水を必要なだけ得ることに苦労してきた歴史でもある。ダムを作る余地もないし洪水の怖さも並みではないが、その分豊富な地下水に恵まれている。京都の水で顔を洗うと綺麗になる″と言い換えれば、それは地下水のことになる。ミネラルを適量含んだ名水ばかりである。水源として活用していないのはもったいない気がする。琵琶湖の水・京都の上水道も硬度42(軟水)くらい。名水井戸と同じ程度のまろやかさとのこと・・。その点では琵琶湖の水で顔を洗うと綺麗になる、と言い換えて差し支えはない。
この項参考までに・・水の味を言うときには硬度(こうど)という尺度が用いられる。硬度とはミネラル分(カルシュウムやマグネシュウム)の質量含有濃度を表している。単位はミリグラム/リットル。おいしい水と言われるのは0〜100くらい。水道水もこの範囲。特に60までくらいが軟水(なんすい)、まろやかに感じられる。60〜120までが中程度の軟水。WHO(世界基準)の分類では120を越えたら硬水(こうすい)という。たとえば300を超えると石鹸の泡立ちも悪くなるという。京都の水道水は硬度40前後で適度なまろやかさ。実は地下水と同じくらい。市内のホテルでは地下水を利用していることを売りにしていることところもあるが多くは水道水を加えている。硬度に関しては同じようなもの。日本では軟水もミネラルウオーターと言います。硬度ということを知っておくと便利。参考までに・・・
※硬度の換算式はカルシウム濃度×2.5+マグネシウム×4.1という式が用いられる。
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二条通から堺町通を少し上がったところ、御所の堺町御門が見えるところに「堀野記念館」がある。銘酒キンシ正宗″の元本宅。今は町家博物館である。天明元年(1781)に松屋の屋号でこの御所の目の前で創業。館長さんと案内役のSさん(京都SKY観光ガイド)に昔の酒造りの様子だけでなく、町家での暮らしも案内していただいた。商家は店と自宅が一緒になっているのが特徴。家族と従業員が一緒に暮らしていた。2階には大切なお客をもてなすこった作りの10畳の広間がある。その前に一段下がったところに細長い鞘の間(さやのま)というのがあって、時には芸妓(げいこ)さんをよんで舞をさせることもあったとのこと。舞台は下がっていた?それでも当時堺町御門の門前には近所には白木屋などの豪商の屋敷もあった。ここでも町衆の力が京都の町を維持していたことが実感できる。散策の途中に立ち寄られても親切に案内くださいます。もちろん試飲もできます。↓続く/堀野記念館/キンシ正宗/京都SKY観光ガイド協会
堀野酒造は約100年ここで酒造りをしていたが明治13年(1880)に伏見(新町)へ蔵を移転した。伏見の蔵は常磐井(ときわい)というこれも名水にあげられる水。ついでながらキンシ″というのは金のトビ、金鵄勲章(きんしくんしょう)の金鵄である。酒屋は名前にこだわるが名前が酒の味を保証するものではない。が、水は間違いなく酒造りを左右する。この庭には名水桃の井″(写真/硬度34度、水温16度)といわれる井戸が残されている。今も酒造りに適した水である。少し持論を展開すると、酒造りに適した水と言ったって特別な水ではない。この辺りでは隣の家も路地の住民も井戸さえ掘れば桃の井と同じ水を生活に使っていた筈。名水の名で枯れかけているのは逆だと思う。都の生活は井戸で保たれていた筈だ。都市の名水とはふんだんにありふれたそれでいて安全な水″のことを言うべきものだと思う。丁度ご近所の美人奥さんが庭までペットボトルに汲みにこられたので写真を撮らせてもらいました。家族のための美味しいティーに変わるのだろうか??堀野記念館さんは友の会を作っている。そうすれば守る気が起こるというもの・・。だからこそ守る必要があるのだと思う。↓続く
京都の造り酒屋の起源は洛中、特にこの二条の付近にあったとの話である。堀野酒造も記念館になってしまったが、洛中にルーツを持つ酒蔵も多い。京都の組合の資料によると、組合の最初明治19年には組合員の酒造家は上京と下京で165軒、伏見よりはるかに多かった。と言うことだか、市内での酒造りはこの頃を境に伏見に移っていく。実は江戸・明治にかけて伏見の酒造業は極めて低迷するが、鉄道の発達により逆に伏見の酒造業が盛り返す時期でもあった。それで、今はというとなんと市内(洛中)ではたった2軒になってしまったということだ。↓続く
この洛中で今も酒を造っているのが二条城の北にある「佐々木酒造」。井戸の場所は聚楽第のあったところである。ここも水を守っている。話はそれるが俳優佐々木某ハンチョウの弟が頑張っている。この佐々木酒造さんはハンチョウの弟三男さんが酒造業を継いでおられる。この頃は宣伝も盛んだ。コツをちゃんと知っておられる。銘柄聚楽第″も西陣″も名前がいい。町屋風の何よりも絵がいい。テレビで兄貴もトラック会社も応援してくれる。それとは別に酒造りは魂がなくては無理である。京都酒造組合のまとめ役もされている。水を守ることも重要な仕事だ。↓続く/→*京都酒造組合→/→*佐々木酒造
もう一軒は左京区吉田の松井酒造さん。吉田神社・京大から西へ、鴨川(川端通)からなら東一条を東へ少し、すぐに立派なマンションが見えると、そこに「松井酒造鴨川蔵」の大きな文字。一階が酒蔵。酒蔵の上が大きなマンション。水も大丈夫だとのこと。約290年も前に創業、一度伏見へ出たがまたこの地にUターンしてきたとの話。マンションフロアーに立派な設備が並ぶ。しかし、酒造りは全て人間の手で行うという。お酒は無濾過の生酒。水がなければ出来ないこと。↓続く
(写真註:店番をする15代目若女将/若女将が書く「蔵元便り」はここをクリックで見ることが出来ます。お酒好きの方もそうでない方もは是非ともご覧ください)
水も店の前に井戸があり、蛇口で飲めました。土地は松井酒造さんとのこと?水のことと経営のこと街の中での蔵元の営みはそれなりの努力があってこそのことと察します。宣伝も大事。あとは松井酒造さんのホームページでご覧ください。お店にいた若女将に「娘さんですか?」と問いかけたら、「嫁です」とさわやかな返事がありました。いかにも京女(きょうおんな)の典型です。その15代目若女将が松井酒造のホームページの中で「蔵元便り」として造り酒屋の毎日を綴ってます。路地子(ろじこ)としてはともかくこちら(若女将のブログ)の応援と宣伝をさせていただきます。是非ともご覧あれ。京都酒造組合の加入蔵元は右京区京北周山町の羽田酒造さんも入れて今は3軒。京都編indexに戻る/→*松井酒造(若女将のブログもあります)・→*羽田酒造
地下水に関しては京都は今苦しい状況にある。琵琶湖に匹敵する水量の水瓶が京都盆地の下にあると言われながらほとんど実体・実感がない。現代の京都市内の上水道はほぼ琵琶湖疏水の水でまかなわれている。名水といわれても水汲み場の水も貧弱だ。そんなところに限ってよく見る光景ながら高年齢男性が自転車やバイクで水を汲みに来ている。一度に2リットルペットボトル6本も汲んでいく。だから結構時間がかかる。その後ろにまた別の高年齢男性が並ぶ。志納金を入れてるのも見たことないし決して途中で譲ろうとしないのはお仲間かも・・私は横からお賽銭分、杓で一口いただいた。名水といわれるものがこんな状態である。そこの神社が土地を割いて高級マンションが建っている。この高級マンションの専用にしたほうがいいと思える。その方が守っていくのにいいかもしれないなどと思った。↓続く
その近くの清浄華院にも井戸があった。金色の蛇口から出る水に勢いがあったし、いい水だった。こちらは新しい設備だから、余り知られていない。もちろん蛇口から出る水の勢いは設置されたポンプの諸元による。が、勢いよく出し続ければすぐにかすれる。京都は地下水の都と言われながら、今はほとんど利用されなくなっている。名水と言われるものの音羽の滝も醍醐の水も山の湧き水である。水盆の地下水ではない。京都の地下水や井戸の実体は分かりにくい。コーヒーや炊飯に使うぐらいのものでは、やはり多くの市民の実感に限界がある。↓続く→*清浄華院
実感のないのは地下水だけではない。水路や堀の水も同じである。上賀茂の辺りで見たような水辺が街中に入ってしまうと消えてしまう。嵐山の堰から分水した勢いのある水は市街地に入ってしまえば消えてしまう。岡崎公園のまわりだけである。京阪電車にそってとうとうと流れる疏水の水も伏見の近くで消えてしまう。都の人は決して井戸水だけで生きてきたわけではない。いつの間にか水路がなくなって水の音が聞こえなくなったと思ったら、お寺の堀にすら水がない。疏水から東本願寺へ防火用水として引っ張っていた水も今はどこに詰まったのか。出来れば思い切り噴出させて見せて欲しい。西高瀬川は景観どころか市民の暮らしに無縁な川になってしまった。観光という産業がなかって観光客がいなかったらもっと早くなくなっていたという人もいる。それなら水を見せるのを観光にして欲しい。これほど水辺のない国際観光都市を路地小生は知らない。↓続く
都があった歴史は生活にいい水″があったことを証明している。水というものは伝説であっては駄目だ。多くの人が生活の中で、見て飲んで浸かって初めて感じられるものである。京都という町にとって琵琶湖疏水の恩恵が大きすぎた。守るということは利用することから始まる。琵琶湖の水は淀川水系千何百万人の命を支えている。千何百万人の人が守ろうとしているとも言える。仮に疏水がなくっても結局宇治川から水を取らねば京都は都市を維持できなかったと思う。今となっては地下水の利用の仕方が分からないのが実態だろうと思う。枯れた井戸を京都検定で名前だけを勉強しているのではか細い″話である。京都編indexに戻る
(写真註:平安神宮の大鳥居、コンクリート製である。不思議なことに歩いてお参りする人はこの鳥居の下をくぐることは出来ない。右の建物は京都市美術館)
岡崎の地は平安時代後期、院政の時代に白河上皇の法勝寺など多くの寺院が営まれた地である。天皇の寺であったが焼失、応仁の乱(1467年)の後に大衰退。それから遥か歴史を超えて明治28年第4回内国勧業博覧会というのがこの京都で行われることになった。その時この岡崎の地が選ばれた。平安京遷都は鳴くよウグイス平安京″794年のこと。明治28年(1895年)は平安建都1100年のときでもあった。法勝寺建立から約820年、焼失から約550年、応仁の乱勃発の後約420年ということになる。明治になって京都膨張のきっかけあるいはさきがけとなったのがこの岡崎近辺だと思う。これを期に岡崎に建てられたのが平安神宮である。→*平安神宮/↓続く
(写真註:西教寺は開放的なお寺である。事務所の玄関に「戒称二門」(かいしょうにもん)の額がある。戒とは如来の不思議な力と働きをわが身の中に感じることである。称とはその力によって活かされている喜びを念仏として外に現すことである。努めて自分の欲望を抑えて他の人との和合に心がけることである。真盛(しんしょう)上人の標榜した戒を守り一心に念仏を唱える姿勢を表したものである。この思想から鎌倉時代に至り、法然や親鸞などが育ってくることになる。)
法勝寺(ほっしょうじ)と言うと、徐々に衰退していったわけであるが、応仁の乱の時にほぼ焼失。その後、廃寺同然であったが、乱後約120年の秀吉の小田原攻略の年天正18年に後陽成天皇の命により近江坂本の西教寺(さいきょうじ)に併合された。西教寺というのは聖徳太子によって創建されたとも言う。良源の庵でもあった。源信(恵心僧都・えしんそうず・1017没)も修行したという天台宗の阿弥陀如来の念仏道場である。室町時代に比叡山の真盛(しんしょう)上人により中興。信長の比叡山焼き討ちの後、坂本の領主となった明智光秀の援助によって再建された。その後の西教寺である。坂本から比叡山横川(よかわ)に向かう中腹に立っている。坂本の町と琵琶湖が見渡せる要害の地でもある。延暦寺(えんりゃくじ)、園城寺(おんじょうじ・三井寺のこと)と並ぶ天台宗の名刹である。なお、坂本の西教寺は兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)ともいう。今は天台宗の一派から独立した天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の本山である。京都編indexに戻る
この明治28年京都府知事は渡辺千秋という人。明治22年には市制施行で京都市が誕生していた。京都市の人口は28万人くらい。東京市・大阪市についで3番目の都市だった。ただこのころは東京・大阪・京都の三大都市は特例として市長をおかず知事が勤めていた。当時の知事に京都三大問題という言葉が残っている。一つは平安遷都1100年祭・内国勧業博覧会・京都舞鶴間の鉄道建設ということだった。↓続く
(写真註:丹波北桑田郡神吉の生れ、京都の近代化に貢献した実業家、京都商工会議所の初代会長、琵琶湖疏水の発電によって日本最初の市街電車「京都鉄道株式会社」を設立、立命館大学の設立にも関わっている)
我が国最初の営業用電車が走ったのもこの年。京都駅前(近く)から伏見油掛まで、続いて京都駅前から岡崎の内国勧業博覧会会場までが開通した。これは琵琶湖疏水と水力発電、潤沢な電力を利用しての事業だった。この路面電車、博覧会に合わせて計画された当時の京都経済界の事業。首謀者は京都商工会議所初代会長高木文平(天保14年現南丹市生まれ)。初代社長にもなる。京都電気鉄道(私鉄)、市電ではない。↓続く
順次路線を拡大、明治33年(1900)には先にコメントした北野天満宮まで延伸、その後市内を環状に結ぶまで路線を拡大していった。当初からこの頃までは単線、停留所なし。電車の前を電車が通りまっせー″とばかり前走り(さきばしり)の小僧がおったという話。ポイントも手動。なおかつレール幅が狭軌(1067ミリメートル *注)JR在来線に同じ)であった。これがポイント。大正7年(1918)市内の電車の運営は京都市電に買収された。↓続く
明治45年(1911/大正元年)から烏丸線など市営路線が開業。しばらく民営と市電の競合時代が続くが、大正7年には京都市が京都電気鉄道株式会社を買収。市営路線は標準軌(軌道幅1435ミリメートル *注)JR新幹線や多くの関西私鉄に同じ)。競合時代は三本レールもまた市電に買収後は、狭軌からの標準軌への改築などが実施され市電カラー一色となっていくわけである。市営化後も堀川線は狭軌(1067ミリメートル)のまま残ったが昭和36年(1961)には廃線。最初の電車伏見線も昭和45年に廃線となった。市営鉄道ゆえの廃線であったのではないだろうか。その市電も昭和53年(1978)に完全廃止。京都市電は京都の都市計画と一体であり、京都の街路を整備していく事業でもあった。碁盤の目にあわせておおむね循環型の路線網となり、それからの京都の街の骨格を作ることとなった。
路面電車にノスタルジーを感じる人は多い。都市の発展のエネルギーを感じられる時代の産物であったかもしれない。京都はそれをリードしたが一方他の都市と同じように一層の都市化のために、市民交通としての手段としての市電に見切りをつけてしまった。京都が一地方都市として暮らしやすい町であって欲しいと思う私もノスタルジー以上のものを感じている。今こそ、残っておればと思ったりもする。残念であるが詮無いことでもある。そんな時「高松吉太郎の都電慕情」のサイトがありがたい。もちろん京都のことも「日本初の京都電気会社」に詳しい。興味のある方にお勧めする。高松氏は明治34年東京生まれとある。 →*高松吉太郎の都電慕情//京都編indexに戻る
この時期、岡崎の地は明治の時代の京都膨張のさきがけだったと述べたところである。このエネルギーと動力は明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水によるというのがまさに定説である。疎水完成後翌24年には蹴上で水力発電が開始された。京都電燈会社による配電が始まった。電気学会の電気の礎″に「明治期の古都における電気普及の先進事跡〜琵琶湖疏水による水力発電および電気鉄道に関する事業発祥の地〜」でも顕彰されている。それはそれでいいが、その時、京都は電気の都だったということである。電気時代の始まりがそこにあるということが言いたい。工業都市京都の復活がそこにある。↓続く/→*電気学会の電気の礎
(写真註:西郷が市長に就任したのは43才である。50才で市長を辞し鹿児島に帰り、後死ぬまで鹿児島で鹿児島のために暮らした。病気で亡くなったのは67才である。京都と鹿児島は西郷親子にはふさわしい町だったのだろう。京都市上下水道局琵琶湖疏水記念館にて
初代の京都市長は内貴甚三郎氏、明治31年(1891)10月に就任した、その6年後明治37年(1904)には第2代京都市長として西郷菊次郎氏が就任した。
氏は奄美大島の生まれ、西郷隆盛の長男である。西南戦争に西郷軍として従軍して負傷した。後外務省に勤務する。日本の治世化の台湾にて官に勤めていたが、日本に帰国して後、京都市長を勤めた。
当時の京都市の三大事業というものがあって
第一が第二琵琶湖疏水、第二が京都の上水道整備、第三が市電の拡充整備であった
現在の京都市の町割り、交通網、上水道など京都市の都市としての骨格はこの時に出来た。
我々が知っている京都の街は明治の京都なのである。
第二琵琶湖疏水の完成は明治45年(1912)のことである。
第二疏水は第一疏水では賄いきれない電力重要に対応し、この水量を得て夷川発電所や墨染発電所を稼働させることが出来た。
とともに、この時近代上水道施設として蹴上浄水場を設置した。
その前年、明治44年(1911)、6年半に渡って職にあった西郷市長は病気のために辞任していた。
(写真註:取水口付近の琵琶湖、写真左が琵琶湖築地、旧第3高等学校のボート部発祥の地でもある。この岬の左手奥が第一疏水、築地の向こうが第二疏水の取水口になる)
京都の上水道は明治45年の琵琶湖第二疏水の完成に始まった。南禅寺の近く蹴上の地の浄水場が始まりだ。現在は三つの浄水場で一日約7万トンの能力を持つということ。その全てが今も琵琶湖の水。市街地人口のほとんどがお世話になっている。正に疏水。疏水"の疏″の字は本来この字。疎水″と書くと親水の対語になる。当用漢字になかったためこの字を当てて馴染んでいた。ただ琵琶湖疎水″では琵琶湖の水に馴染まないと言ってるようで琵琶湖に失礼。ついでながら、疏水(そすい)とは灌漑(かんがい)や舟運(しゅううん)のために水路を設け通水させること。農業目的が多く営々と続いて日本国内では40万キロに及ぶとも・・。琵琶湖疏水が初めてでも専売特許でもない。 →*京都市上下水道局琵琶湖疏水記念館
(写真註:聖地夷川発電所の傍らに立つ第3代京都府知事の銅像、後北海道庁長官をも勤める。正三位勲二等男爵北川国道とある。)
近代京都の代表的事業である琵琶湖疏水事業を見る目は色々ある。
まず、人を見ると第3代京都府知事北垣国道氏、主任技術者田邉朔郎氏。もちろん彼らは行政の代表者であり工事の責任者である。特に、田邉朔郎氏は工部大学校を卒業したばかりの未だ大きな実績のない若き土木技術者である。人を語るにはその彼に計画の大部分を任せた当時の意気込みをこそ話題とするべきである。
近代土木遺産として見ると都市再生と近代化を目指した大事業であることが分かる。多くの都市住民を養っていくのは水である。また、利水は効果的な治水事業と対をなすものでもある。
桃山時代に多くの技術者を抱えて天下を取った秀吉が京都の街を囲むお土居を作ったのは現実の都という政治都市の防衛と治水であった。都市計画という点でも平安京建都以来の大土木事業である。秀吉の壮大なかつ絶大な権力の表れでもある。
しかしながら、おかげで平安京建都当時の町割りの3分の1の規模になり、京都の街は小さくならざるを得なかった。↓続く
実体の政権が遠のいた江戸期の京都は幕末の一時期を除いてはただの一地方都市に過ぎない。
徳川政権になったとたんこのお土居を全てこぼってしまったのは都市防衛よりも人の行き来と舟運などの利水を優先したからである。
それ以外に、都城としての機能を排除する政治上の事情がある。防衛すべき都市ではなくなったということなのだ。古都であったと言えば言葉は美しい。
多くの教養人がそう思っていた。だが、幕末に至って、京都は朝廷の居る現実の都であったことを知ることになる。
幕末動乱の京都は実はバブルの時期だった。明治になって公家も武士も旧幕府も新政府官僚も政治家も、商人までもが一斉に京都から去って東京に移住してしまった。今度は本当の古都になってしまった。
政権から見捨てられた過去の都市になるのだろうか。古都という言葉は美しいがそのまま滅びゆく美しさなのだ。
ダムのない時代のことである。桂川や鴨川の水量では大都市は支えられない。大阪は淀川のおかげで水の都を享受している。それも琵琶湖という巨大な自然ダムの恩恵なのである。
ざっと言えば大阪湾に面する大阪と内陸の京都の標高差はたった20mくらいしかないが・・・
大阪にはなくて京都にあるもの、その答えが「落差」なのである。
↓続く
(写真註:田辺朔郎、旧幕臣田辺氏の出、工部大学校出身の土木工学者、卒業後すぐ明治16年に京都府御用掛、後帝国大学の教授など、北垣知事の長女と結婚、岳父と共に北海道庁の鉄道開発に従事、近代土木の礎となる。京都市上下水道局琵琶湖疏水記念館にて
明治は日本の産業革命の時期でもあった。古都の近代化は都市人口の拡大と、産業の育成だった
琵琶湖疎水事業は都市土木の先駆を為すものである
地形を上手く使った計画としてエネルギーの確保がある。都市膨張と近代化の需要が土木工学の進歩を必要とした。我が国には昔から疏水事業はあるが大都市の営みそのものを委ねるような事業は少ない。
琵琶湖の南端にある大津宿から東海道の起点である三条大橋まで直線距離にして約10キロメートルである
因みに京都市は滋賀県の県庁所在地である大津市と隣接している。二つの県庁所在地が隣接しているというのはここだけの事例である
土木工学の基礎である水理という観点で現況を考察してみよう
大津市の三井寺町琵琶湖湖畔北国街道の下を琵琶湖からの水が引かれている。この北国橋付近の現在の標高は約88mである
明治の初め、水位調節ができるまでの琵琶湖の水位は変動が激しいが、基準水位(TP+84.371)より0.5〜1mくらいであったとある
取水できる水位は標高で言うと84mということになる
一方、京都市伏見区の伏見港の寺田屋浜は約13mである。当時琵琶湖の瀬田川は宇治川あるいは巨椋池となってこの寺田屋浜の前まで水が来ていた。ここから大阪湾までが淀川である。
この地点までの自然の水位差約71m(81m-13m)に目を付けた人がいたとする。それが北垣であり田辺なのである。この水の一部を、京都市内まで大きく迂回してまた淀川に返すことを考えたのが琵琶湖疏水なのである。↓続く
(写真註:琵琶期の水が京都に到達するところ。蹴上(けあげ)船溜まりという。インクラインの起点でもある。今は時に疏水水路の観光船の船溜まりになっている。ここが疏水事業の中間点であり琵琶湖がここに出現したことになる。水面の高さはTP+80mになる)
まず、琵琶湖から南禅寺脇の蹴上船溜まり(インクライン上部)まで距離にして8キロある ここまでを水位差は2000分の1、8キロメートルで4mになる このとき水位は標高80mになる 南禅寺船溜まりが琵琶湖なのである だからこそ山の中をトンネルをで持ってくる必要がある これが疏水水路である 疏水水路を見る視点は色々ある 第一は測量技術である第二は難工事である ではあるが、第三の視点はこの水と水位をどう活用するかということだ・・・↓続く
(写真註:夷川舟溜という、市街地の中にあるダム湖でもある、この傍らに立つのが北垣知事の像である)
現在は関西電力の発電所になっているが、その現況である
蹴上発電所、明治24年5月に運転を開始した日本最初の水力発電所である。取水位が80.32m、放水位が45.93m、有効落差が33.74mである
夷川発電所、大正3年4月、取水位が45.16m、放水位が41.23m、有効落差が3.42mである
墨染発電所、大正3年5月、取水位が29.81m、放水位が14.06m、有効落差が14.31mである
実はこれ、疏水の発電所施設なのである。上流80.32mから始まって下流14.31mまでの66.01mである。その間に3カ所の水力発電所で発電に使った落差の単純合計は51.47mとなる。
水路を流すのは自然勾配である。それを除いたほとんどを水力発電に使っているのである。
水力発電は落差を活用する発電であり、何度使っても目減りしないのである。かくして、琵琶湖疏水は大津の84mから伏見港13mまで大きく迂回して京都市内を流れ下るのである
疏水の水は大都市京都の命の水だがその本流は宇治川に吐かれるまでまだ仕事をする。これが琵琶湖疏水の本流なのである。
なお、淀川水系最大のダムは天ヶ瀬ダムである。発電に使用する有効落差は57.10mである。琵琶湖疏水もそれに匹敵する仕事をしているという所以である。明治の初めに計画された疏水計画も水力発電に活用することによって京都を電気の街、電車の町、近代工業の街に変えたのである。→明治28年は電車の始まり
(写真註:疏水の流れ、京都市上下水道局琵琶湖疏水記念館にて)
第一疏水と疏水分線の完成(M23)から20年後(M45)第二疏水が完成した。
今(現在)岡崎公園の堀は琵琶湖疏水の水と白川の水が一緒に流れる。白川は白い砂を上流から運んでくる。ずーっと昔からだ、だから白川という。川底が白いのが特徴である。その川が琵琶湖からの水と合流して西へ川端通り・鴨川に向かって流れる。その流れに沿う通りが冷泉(れいぜん)通りである。平安神宮の前の道である。
冷泉通りは、"れいぜん"と読む。鴨川を渡って西へ続く道を夷川(えびすがわ)通りという。この通り鴨川に橋が架かって繋がっていた。が、昭和10年6月の京都大洪水で流されてしまった。少しずれて整備された道が夷川通になった。鴨川より東の都の外に冷泉通りの名が残ることになった。
ややこしいことだがいにしえの冷泉通りはなおいにしえの冷泉(れいぜい)小路の名残の道である。この場合はれいぜいと読む。↓続く
(写真註:疏水の流れ、この冷泉通りの沿ってあるこの発電所は夷川発電所という。今は関西電力の夷川発電所である。放流口からごうごうと疏水の水が流れ出る。)
冷泉通りは人通りの少ない通りであるが、その水音がいいと、毎日その水音を聞きに自転車でここへ来る人がいる。ここは琵琶湖疏水の聖地、銅心先生に会うにはこの琵琶湖疏水の水音が止まないここでしか会えない。
会えば「よう」があいさつである。衒(てら)いなく話好きのいいおじさんである。世間的には互いにお爺さんと言うのが正しい。が、同世代ではお爺さんと呼ぶのは当たらない
私は銅心さんとは呼ばない"先生"と呼ぶ、本名を知らないからだ
先生は私を”お父さん"と呼ぶ。京都の人は親しみを込めて女性をお母さんと呼ぶ。その伝であるが、・・実は同じ世代である.
ピカピカの銅線を編んでいく。市井の工芸師、埋もれた工芸師、無欲の工芸師、貧乏工芸師、・・・・???
店をやっているわけでもないし、その風采はカスミを食って生きている行者のようでもある。時々わざと貧しき風采をして托鉢に出てくる京都のボンさんよりは仏に近い。世俗そのものなのだがその世俗から孤高の人である、だからどう表現しても当たらない。大雨が降らない限りここで朝から夕方まで座り込んでいる。
気に入った人にはあるもんだけ売るし、目の前で作品を待って買ってかえる人もいる
だが、ここ2年はコロナの影響もあって多くの人と疎遠になっている。コロナもオリンピックも何も関係なかった人がいる。ただ、この間、京都以外から来てでも話していく人はいなくなってしまったという。
が、それすら関係ないという。↓続く
(写真註:銅心先生は戦後の孤児である。孤児としてずーと育ってきて、なお今も孤独である。だから、欲の対象を持たなかったという。だから注文にも応えない。ピカピカ光る何千円・何万円?もする銅線だけが買えればいいという。あんたは仕事も家族もあったのだから欲を持っていて当たり前だと慰めてくれる。
)
孤児として育ってきたからかもしれないが、30代の時に「欲と人とどちらを取るか」で迷って「人」を取った。家族も師匠も弟子もいない。銅線を引っ張って引っ張って手が血だらけになってしまう。その血が出ない指や手になるまでやり続けてやっと出来ることだという。欲があったらできないことだという。先生が言う「欲」とは”自分”のことであり、「人」とは"他人”のことである。
だからと言って、決して仙人じゃない、生身であるところが興味深い。何を書いてもいいと許可を得てるのでまたまた京都巷談のネタにさせてもらった。
頭がボケるか手先が動かなるまでは今の生き方、暮らしを続けるという。
ボケても手先が動くなら続けると書いとくで、と言ったらどうでも書いとけという返事だ。
売り上げで自分で出来るだけの銅線だけを買う。
名前はただの「銅心」、生き方はただの「工芸師」。
紹介するのはそれだけである・・。
(写真註:)
(写真註:鞍馬鉄道電車デナ21形)
京都の電車を語る時には、京都電燈という電力会社のことを始めなければならない。琵琶湖疏水に生み出された京都の電力による電灯の普及に貢献しただけでなく、日本初の市電(京都市電の前の市電)を走らせた。その後、京都・福井の鉄道業行った。大正7年(1918)には嵐山電気軌道を吸収、昭和2年(1927)には鞍馬電気鉄道を設立した。京阪電鉄との合弁会社だった。当初は宝ヶ池(当時、山端)から市原までだったが、昭和4年(1929)には鞍馬駅が開業、この時から出町柳〜鞍馬間の直通運転になった。現在の叡山鉄道鞍馬線のことである。 なお、鞍馬駅は開業当時の姿をよく残している。開業して90年になる。
(写真註:元の京都電燈会社の本社屋/京都駅前塩小路通に面して見える優雅な建築物。今は関西電力京都支店になっている)
明治21年にできた電力会社。近畿だけでなく北陸も営業区域とした。当初は火力発電の行ったが、琵琶湖疎水蹴上発電所(明治24年・市営)から電気を配るいわゆる配電会社。28年には日本最初の営業用電車に電力も供給したというのは前述したところ。大正時代に入って京都府と福井県内で鉄道業に進出。嵐山電気鉄道を経営。叡山線鞍馬方面の鉄道とバスの事業を行う。戦時下(昭和16年)に発送電・配電事業を分離(出資形態の変更)。鉄道事業は京福電気鉄道として分離。電力は日本発送電。配電部門が関西配電・北陸配電などに資本を引き継ぎ昭和19年(1944)に会社を終える。電力会社の歴史の流れの本流が見える。↓続く
確かに京都は観光都市であるが、宗教教都市と言われたことがない。仏教が観光の中で埋没しているからである。各宗派の聖地であるのだが、精々大学の経営で名が出るくらい。市役所も観光という観点での京都の社寺をアッピールしている。でも中学の社会科地理の授業に戻って欲しい。京都は明らかな工業都市である。社会科で言う内陸部工業である。工業地帯ではないけれど、仮に言えば先駆的内陸型工業の盛んな都市である。消費地は生産地でもあった。織物に限らず美術印刷に限らず、それこそ何百年もこの地で続いて磨き磨いてきた家内工業と繊細な職人肌と需要に敏感な商人のいる日本で一番古い町でもある。市役所の極端な宣伝のお陰で先ず国際観光都市であると市民までが思い込んでしまっている。神社仏閣が、芸術が、花街(かがい)が、着物屋が扇子屋が漬物屋までが観光客のセンスに合わせて衣替えしてしまった。↓続く
そんな京都で落ち着けることがあるのは、決してオリンピックなどには名乗りを上げないことだ。国際会議場はあるが、次に世界遺産にも名乗りを上げた。しかし、国際博覧会も京都には不要。オリンピックに関しては東京に決まってくれてよかった。日本でやるなら名古屋でも大阪でもよかったが、大阪では近すぎて尻が落ち着かない。東京にオリンピック見に行くぐらいが丁度いい。しかも今の新幹線で。もう十分過ぎます。リニアモーターカーはまっすぐに名古屋と大阪を結ぶらしい。奈良へ乗りに行きます。京都見物も奈良から入ってください。大阪も十分近いのでこちらから行きます。出来たら、壊さない街″に名乗りを上げてください。京都編indexに戻る
岡崎公園からは東へ少し岡崎東天王町にある岡崎神社も平安京鎮護のため都の四方に鎮座した大将軍(たいしょうぐん)の社の一つ。陰陽道の方位神である。疫病から都を守る使命があった。大将軍は3年ごとに東西南北住む方角を変える。大将軍の方角は万事凶とされた。桓武天皇は京の造営の時に各方角に設置したものである。現代ではそれがこの岡崎神社または、東三条大将軍神社とされている。大将軍は牛頭天王(ごずてんのう)または牛頭天皇の子とされる。神仏習合で牛頭天王はすなわちスサノオノミコトでもある。現代のこの社のご祭神はスサノオノミコト、クシナダヒメ、ヤハシラノミコガミ。天王″と言えば牛頭天王″のことです。古くは東天王(ひがしてんのう)といわれ東天王岡崎神社というのが看板である。このあたり天王町という呼称が残っている。この岡崎神社今は安産祈願の人のために狛犬と並んでコマウサギがある。→*岡崎神社
南禅寺の界隈は疏水(そすい)の水を使った作庭が多い。ナショナルの松下幸之助の別荘もあった。松下幸之助は発明家だというけれど、私はこんなところに別荘を持った松下幸之助はやはり商人だったのだと思う。だけどそれが大ナショナルの社長の偉さだとも思う。「真々庵」という。作庭は植治(うえじ)・七代目小川治兵衛。それ以外にも南禅寺界隈の名庭を多く手掛けている。南禅寺の裏を回った疏水の水は自然且つ十分な水位を持っている。このあたりに別荘を持つことも庭園文化財保護活動の一つかもしれない。成功した人の誇りでもある。→*南禅寺→*植治
明治から昭和前期のスーパー庭師・七代目小川治兵衛。上の真々庵に限らず、山形有朋や近衛文麿、平安神宮や八坂神社・円山公園、大坂での住友の別邸慶沢園、長浜の慶雲館、亀岡の楽々荘など一流著名人の別荘経営を一手に引き受けている。南禅寺界隈に見えるように石と水の流れを重視した作庭・・。日本庭園を楽しむことは大なり小なり、人生の優越感を高めるもの。従って自分のものとして自分だけが楽しもの。もしくは有料。ここでの庭園は囲い込んだもの。一流庭師はここで働く。別荘庭園の対語が公園″なのです。→*平安神宮
整った日本庭園を見て、自然が一杯ですねと言って感心した人がいる。京都の自然が好きと言った人もいる。気持ちはありがたいしわからないでもないが、寺社も別荘も日本庭園のこれは全て人工であって、自然とは対極にあるもの。京都の街中は極端に自然の少ない。皆さんが回ってるほとんどが作られたもの。庭園というものはそういうものなんです。何を見てもともかく“キレイ”と叫ぶような人が、作られた庭を見て「自然が一杯!!」と叫ぶ。京都へ来たらもうそれだけはやめてほしい。自然でないから工夫があり文化があり技術があり職人が居るのです。自然でないから人が居るのです。美意識が磨かれていくのです。それが昔は都だったことのある都市というものの宿命なんです。京都は今だ都市なんです。京都編indexに戻る
平安京造営の際大内裏に南にあった大庭園。二条から三条までに達する池を中心とし天皇や公家たちの宴遊の苑が神泉苑。都の整備をするにあたっても特にこのあたりは沼沢の地であったのだろうと思う。この都は地下に潤沢な地下水を貯めていたが、それでも泉は神の恵みであり池を掘り、堀を作って水道として大事にしていただろうことは当然である。言い換えれば、水の湧くところには建築が制限される。禁裏の中で舟遊びも花見も月見も楽しめたわけで、まさに神泉や神泉苑ということでいいのだろうと思う。
時代が下がって中世になって、徳川二条城は平安京平安宮の跡(東南端)と平安京神泉苑の地に築かれた。一つはこの地が当時の都の唯一の大通二条通を城門で行き止まりにする位置であったことにある。二条大路を境にし北(上京)に内裏や公家、南(下京)に都の商工業者や庶民、西の二条城の堀に近いところは武家の屋敷という配置である。京都を睨む街づくりのための城であり、その地である必要があったのだと思う。平安京が出来てから北斗の方角が玄武の居る北、北が上とばかり頭の中にある。しかし仮に90度左に首を振って西を向けば実はこの城が内裏のような位置になる訳である。江戸政権安定の戦略の城である。
徳川二条城といったのはこれ以前に二条城と言われるものが存在したため。徳川二条城とは現二条城ことである。二条城は明治になって離宮に今は京都市の所有、世界遺産の一つでもある。築城時には天守も備えた征夷大将軍の都での居城であったが、大坂の豊臣家が滅んでからは戦略的価値が一気に消滅。軍事拠点は大坂へ移すことになった。二条城は徳川三代目家光以降、幕末まで200年以上も歴史上の役割を果たすことが無かった。徳川政策は封建領主を中心にした地味な政策を体制維持の基本としていたため、直轄の地でありながら京都の街づくりにほぼ無関心であった。都といいながら覇権なき京都の時代がそれから始まったわけである。それが今まで続いているというのが路地ろぐのテーマである。
二条城がこの地であるもう一つの理由は、この地が神泉苑の跡地であることだ。大規模な城郭を築くのに第一は掘である。堀を掘り下げ土砂を積んで石垣で城郭を盛って行く、清涼な満々とした水を堀に貯める。伏見城や聚楽第や大阪城のスケールの大きさを現実に見ている人にとってはこの城で京都人に権威を示さなければならないわけである。本当のビックは江戸にあるわけだから、神泉苑にふさわしく水に恵まれた城でないと。・・・この時代の常識で言えば井戸を掘ればいくらでも命を長らえる水を得られる城だということ。堀にいつも地下水が供給されてていること。美しくて落ちない城だということ。土木工学的に言えば水が集まり、川が流れ、水が湧く地が神泉苑ということだと思う。
今残された神泉苑というのは、結婚式場の大きな看板。名物うどんちり″を売りの料理店。門には東寺真言宗神泉苑の表札。社では善女竜王という竜神さまを祀り、恵方の神様を祀り、ご本尊は聖観音・弘法大師。祇園祭の元、また祇園祭の神輿の渡る晴れやかなところ、まだまだ源義経と静御前の出会いの場所・・。神泉苑に踏み込んだ人は強烈な幻滅感を感じるのではないだろうか。これが今の京都の一つの典型。これでもかこれでもかと京都イメージを詰め込んで、池には竜の頭の舟が浮かべてあり、鯉やアヒルまでいる。このごっちゃ混ぜ落ち着きの無さは、一体ここは何なのか分らない。和風結婚式場の演出としてはなかなかのもの?・・ただ、平安京の神泉苑の跡というのはこんなのだったと思う人がおっても言い訳もできない。名残も優雅さもないやんかと言いたいのだが。スミマセン国の史跡指定を受けているらしい。↓続く→*祇園平八亭
源義経ゆかりの地の一つが神泉苑。もちろん当時の神泉苑は御所の南に隣接する広大な禁苑。二条から三条に及ぶ。後白河法皇の時代、平家を瀬戸の海に沈め滅ぼした後の義経が容姿端麗の静(しずか)を初めて見た場所という。この神聖なところで法王の命により雨乞いの舞を舞う白拍子が静。時の都の英雄が義経。この時、静を見初めたという訳。室町時代に書かれた伝説的英雄物語「義経記(ぎけいき)」による。白拍子は歌舞の一種。今様(いまよう)など歌いながら舞った。「平家物語」で妓王や仏御前、静の母磯の禅師なども白拍子である。↓続く
当時の白拍子は神に仕えた巫女(みこ)が起源だという。諸国を漂泊し、人の集まるところで歌や舞を見せ、かつ侍(はべ)るという。極めて自然なことだと思う。それを傀儡(くぐつ)と言っていたが、歴史的には平安期特に院政の頃都市(都)に定住することになる。白拍子はその中で芸に秀でたものが、当時台頭しだした武士の支持を得て貴族社会にも浸透しだしていった。そのことによって表社会に出、かつ職業的になっていった。白拍子は遊女である。しかし、職業的であるということは、見識が高いということでもあった。
白拍子はおおむね下げ髪で立烏帽子(たてえぼし)を被り白い小袖に緋色の長袴(ながばかま)をつける。白巻きの太刀を帯び男装で今様(いまよう・当時の流行歌みたいなもの、即興で歌うことが多い)を歌い舞う。白拍子は庶民階級の者たちであった。しかし、その美貌と才能で法皇や貴族まで、また武士の棟梁など最上級な階級の者たちに愛されるようになった。それは現代と同じように芸能というものの花の部分であった。白拍子と言われて名の残るものはそれこそスーパー芸能人であった。また、それが職業でもあった。↓続く
室町から桃山期の芸能に詳しい宮川講師によれば、室町時代の初めまであるき白拍子″と呼ばれるものによって、その白拍子の舞は続いていたと言う。また、白拍子はその後の近世の遊女のルーツであるとともに、その舞は猿楽や能やひいては歌舞伎などの舞踊のルーツでもあるという二面性を持っているという。公卿・僧侶や武士でなかったら場合によっては読み書きもできなかった時代にあっては、舞踊や音楽は重要な表現手段であり、言葉は教養であった。宮川講師の念押しによれば、「芸能は身分社会においてもっとも有効な才能であった」と言う。↓続く
も少し宮川講師の話のさわりの分を。先ほどの白河院は法王でありながら格別にこの今様(いまよう)″というのが好きだったようだ。院自ら昼夜の区別なくこの今様の稽古をした。今様というのは、読んで字のごとく今はやりの様式というような意味である。5・7調の歌を繰り返す歌曲である。流行歌という意味に近い。下層の者が作り歌うというものであるが、院が歌うとなればということで都中に広がった。下層の者とは・・遊女(ゆうじょ)・傀儡子(くぐつ)・巫女(みこ)・海人(あま)・樵人(きこり)・山伏(やまぶし)・祝(ほふり)などなど、遊行(ゆぎょう)の人たちが多くこの人たちが作り広めていったとある。一口で流行歌と言ったが、その詩は各地の信仰や仏典に基づいたものであり、歌占の巫女のように、神秘的な宗教的な内容が特長である。お経を説いているようなものが多い唄である。他にも盲目の人たちが語る詩はやがて琵琶などの伴奏のついた軍記物語となっていく。と、宮川講師は言う。↓続く
歩き巫女(みこ)や遊女や傀儡子(くぐつ)というのはこの当時の職業的歌姫であり、またその中から白拍子(しらびょうし)となって一気に法王や当時台頭してきた武士(例えば清盛や義経にも)など上層階級に交じってくるわけである。上層社会の教養とは違う芸や才能というものであったからこそである。有名芸能人がいつか上層階層に浮上してくるのは、現代でも同じことである。芸能という言葉が当時あったとは思えないが、新しい感性で現れてきた者たちこそ芸能人のルーツである。女性を主としたものでもあった。遊女というのは世界でも最初の職業だと言われている。数限りなく才能溢れたの女性ばかりがいるわけではない、流行りの白拍子も衰退していくとともに遊女に戻っていく。というのも歴史である。ただ、今様は日本人の好きな詩の形を取っており残していこうという愛好家も多くいる。京都編indexに戻る
(写真註:西側から見た現在の二条駅舎。御池通を跨ぐようにある山陰本線の二条駅舎。珍しい木造トラスで球面の屋根を支えている。車と地下鉄は御池通の一つ北側の押小路通りに迂回している。)
西の二条。一方こちらは蒸気機関車の方の話。明治30年、京都鉄道が二条・嵯峨間で開業。この後3年後には京都・園部間が開通した。京都鉄道会社は民営鉄道。旧二条駅舎の建物が本社を兼ねていた。今は梅小路公園にある旧二条駅舎として残っている。社長は田中源太郎。亀岡の生まれ。彼の生家が「楽々荘」になっている。今観光客がトロッコ列車として楽しんでいるのがこの京都鉄道が難工事の上に建設した線路。決してトロッコのための線路ではない。国鉄によって買収後100年たってやっとこの区間が新しいトンネルと複線電化されたことを思えば、当時の行政・経済界と鉄道土木の意気と技術の高さの方に驚く。京都編indexに戻る//*楽々荘
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