新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らず言いっぱなし巷談です。薀蓄もどきは飛ばして読んでください。京都の暮らしの横断面図。以下前ページに同じ。京都編第4章です。260605
(写真註:写真は国道1号線、京津線大谷駅付近、旧東海道と重なる。山科から逢坂峠に向かって登っていく。丁度写真の奥に逢坂の関跡にあたるとあった。)
山城の国と近江の国、山科から大津にいたる国境は逢坂山(おうさかやま)を越える。街道は逢坂山とそのすぐ南に位置する音羽山(おとわやま)の間を通る。往古(むかし)から逢坂の関が設けられ、東国から都への出入り口である。JR東海道線は逢坂山をトンネルでくぐる。この山間(やまあい)を昔の街道に沿って国道1号線と京阪京津(けいしん)線が並んでいる。この山間の峠あたりが逢坂の関が置かれたあたりらしい。京都から行けばこの峠を越えたところが大津の宿、東海道五十三次の53番目の宿場町であり最大の宿場町でもある。行政区域では京津線の追分駅・大谷駅などはは大津市になる。京都市と大津市は県境ともども隣接している。逆に言えば北から湖上を来たのも東から陸上を来たのもこの大津で合流し、東海道となって大津宿から峠を越えて追分を越えて西へ進み京都三条に至る。あるいはまた追分から南へ下る(ならかいどう)と伏見の宿に至る。↓続く
(写真註:茶店は明治の初期まであった。その後日本画家の別荘に、現在は月心寺という寺になっている。道路わきに茶店があったことを示す門灯。走井の所在は分からない。お寺の山門はここからまだ一段高いところにあった。走り井のHPを参照しました)
この大津追分の名物に走り井餅というのがある。インターネットで検索すると走り井餅本家というのが出てくる。そのHPのよれば「走り井」とは、この逢坂山から湧き出す清涼にして冷気凛々たり、とある、井戸の名前であることが分る。餅の方はこの「走り井餅本家」によって製法は守られている、とある。走井茶店は歌川広重(ひろしげ)の東海道五十三次大津に描かれている。茶店の前を牛車が米俵を積んで通るの絵である。それはさておき、このHPがなかなかによく出来たもので、この辺りの歴史に詳しい。実は「車石(くるまいし)」を調べたくて見つけたものです。↓続く
(写真註:広重の「大津走り井茶店」(部分)インターネットからコピーです)
このHPによると(説明がないが寛政9年(1797)出版の東海道名所図会)同じような構図ながら牛車(ぎっしゃ″と読むのが一般的)が専用通路を通っている。実は車石というのは舗道石のことであるが、当時の大量輸送に欠かせない牛車の通行のために敷いた石のことである。それだけでなく人や馬の通行する歩道と区別し堀下げて通行の安全も計っていた。これは実は相当な大事業である。しかもこれは日本には数少ない舗道文化である。それだけでなく残された石を見れば轍(わだち)の部分が大きくくぼんでいる事がわかる。賢明な読者はすでにお気づきだと思う。くぼんだレールの役をしている。わが国最初の軌道文化だとも言える。この車石道は、伏見(港)から京へ入る竹田街道にも、下鳥羽や淀(港)から京へ入る鳥羽街道にもあったといわれる。↓続く
(写真註:逢坂山の関跡の休憩所で見た車石の図、分かりやすいのでスケッチしました。一つの石は30センチ掛ける60セントほどで厚みも20センチ以上、これを車輪の幅に合うよう2列に並べたものである。江戸時代中期これを大津から三条大橋まで約10キロ、5、6万個も敷き詰めたものである。)
舗道は古代ギリシャやローマでも当然のように文明の象徴でもある。舗道の厚みは日本の現代の車道と同規模だも言われる。ある研究者によると、文明国でありながらわが国の江戸期は舗道の文化が発展しなかった。それは日本人は昔から牛や馬を去勢して使うのを好まなかった。馬は何とか調教によって使いこなせるが、力は強いが牛は使いにくかった。牛車の牛が大暴れするのを平安時代の昔から経験している。だから都市では馬や牛を使う交通手段は危険なものとして禁じられていたことによるとある。乗り物は駕籠であり、荷物は大八車である。ほぼ人力に頼る交通文化だったといわれる。それが舗道(ペーブメント)が発達しなかった理由だということだ。↓続く
(写真註:車石軌道を再現すればこんな感じ・・?!旧街道沿いにある真宗大谷派閑栖寺境内にあったものを撮らせていただきました。いいお寺でした。文献によると軌道の幅は4尺5寸(136.3センチ)。溝は半円形に穿ったものや牛車の通行で自然に出来たものもあるらしい。石材の違いによる?)
明治になって陸上の乗り物の文化が先進諸国から入ってきた。その最たるものが蒸気機関車である。蒸気機関は日本でも明治と言う時代を象徴する文化になる。一方、明治の和風文化は「人力車(じんりきしゃ)」と言う奇態(きたい)な乗り物を発明した。奇態というのは人が動力となって人を乗せて走るなどと言う発想はヨーロッパやアメリカにもなく、これを見て欧米人は驚いたと言う。本来なら馬車である。が、まさに和風文化である。お抱え駕籠かきの延長である。明治維新は身分制度のご一新でもあったんのに人力車では揺り戻しでもある。それよりもそれから百数十年たって、観光都市京都にまた人力車が走る。いっそ牛車にすればよかったのにと思ったりする。逆しまなことと、思っていたらテレビコマーシャルでも人力車が出てきた。特に苦情もないらしい。人力車の原型も牛車にある?・・だが、軌道文化ではない。文明はエンジンというものを開発したのにと思う。それはさておき・・文化の京都は人力車などに見向きもせず、蒸気を越え、一気に電力に走った。それは琵琶湖疏水の賜物であった。公共の事業というものはそういうものであった。誰にでも見えたものではない。↓続く
(写真註:蹴上の琵琶湖疎水にある田辺朔郎博士の銅像。20代の若き土木技師である。土木技術は市民のための技術だということを身をもって実践した人である。技術者は偉人でなくともいいが恩人と言われる人になるのが市民文明に携わる技術者の使命である。土木工学のことをシビルエンジニァリングという。)
琵琶湖疎水の工事はこの牛車の通行を見ながらの工事だったのである。京都の恩人田辺博士には見えていたのではないか?道路上を安全に走らすには軌道が必要である。水力から電力を生む。土木工事は人力に頼らざるを得ないとしても、人を運ぶのに人力の時代は終わっている。まだ自動車はないわけである。鉄軌道である。電車を走らすことにしたその発想の下地にこの車石文化(軌道文化)が下敷きになっていると言えばあなたはどう思いますか。この電気と言う動力のお陰で、京都は錆びない、、滅びない古都(観光都市ではない、近代日本で最初の工業・商業都市)になり得たのである。彼だけではないとしても多くの恩人の一人である。今の京都がある。そのことの恩人であるからだ。京都編indexに戻る
京都市内は盆地の北端。どこから見ても山が見えるのは安心感がある″と続く。この安心感はまず狭さなんだろう。関東平野東京では山が見えないとも言う。それに比べて京都は狭い盆地であるのは述べたところ・・、多くはそういう意味で語られる。安心感の本当の理由は、それは街割りが碁盤の目のような条里制の名残にある。通りが直線に通っているから道の向こうに山が見えるわけである。山の形は東西南北で違うし、今自分がどちらの方角で山にどれだけの距離にいるかということが理解できるわけである。街中で言えば山が見えないのが南である。と言いながら、実は碁盤の目の街割りは相当に崩れている。大きな通りでしかそれも感じられなくなって来ている。それでもそれを知っておれば観光案内を読んできた旅行者の安心にはなるかもしれない。それともう一つは、山の見え方である。おおよその天候の予測がつく。特に冬の時雨は当たる。京都は大盆地に続く//京都編indexに戻る
56代清和天皇は55代文徳天皇(桓武天皇(50代)の曾孫)の第四皇子。850年に生まれる。その年に父帝が即位、生後9カ月で立太子。9歳で即位(858)。外祖父藤原良房摂政となる。良房亡くなり23歳の時に親政を行うも、27歳の時に10歳の陽成天皇(57)に譲位。この時から、藤原氏一門の権勢振るい、特に良房、子基経は位人臣を極めと言われ太政大臣、摂政までを任じられるほどになった。皇位としての清和天皇の血筋は御子陽成天皇まで。清和源氏の家系図によれば陽成天皇の異母弟貞純親王の系統が臣籍降下清和源氏として名を世になすこととなる。上の写真は水尾円覚寺の許可を得て北山伊一氏(下記)がとった清和天皇御木像・・を著作から転載しました。↓続く
藤原の鎌足(かまたり)の孫、不比等(ふひと)の子、藤原四兄弟の二男房前(ふささき)の一統藤原北家の藤原良房は文徳天皇のときに太政大臣に、良房の娘は文徳天皇に嫁ぐ、その藤原氏の子が清和天皇(56代・858)。時9歳の清和天皇の外祖父。これが摂関政治の始まりである。その後良房の子基経(もとつね)は清和天皇の摂政からやがて関白になる。以後藤原家もこの一統が臣としての最高の位を独占し権力の専横が続く。この根拠となったのが外祖父″という血縁関係。10数代の後の白河上皇(72代天皇)が院政(1086)を敷くまで続くことになる。院政は祖父および父と言う父系の後見政治である。摂関政治は権力者の外祖父が朝廷政治を行っているわけである。母系の政治であった。↓続く
清和天皇は譲位の後出家。畿内(きだい)の仏寺巡行の旅に出る。仏道に対する謹厳な姿勢を貫きながら31歳で崩御。粟田の円覚寺で死去、御陵(土葬)を作らず荼毘(火葬)に付された。出家後隠棲の地、丹波の国との境水尾(みずお)に遺骨を葬られる。都の鎮護がその遺志であったともいう。水尾天皇とも言われたが、おくり名は清和院の清和天皇とされる。水尾山稜(みずのをやまのみささぎ)としてそれから1000年明治になるまで、この里の人が奉仕し守ってきている。明治からは宮内省の所管となり現在の山稜となる。江戸時代水尾村は愛宕山白雲寺の参道の村としても暮らす。秀吉・家康の侍医でもあった・・禁裏付き医師の施薬院三雲氏の所領。約111石とある。↓続く
清和天皇の事績についてはなんと昭和12年発行京都市立水尾小学校校長北山伊一氏の研究著作「清和天皇と水尾」に詳しい。たまたま古書店で遭遇して、手元にある。清和天皇を祭神とする清和天皇社を守って里にも下りなかったこの山里の人ことを書いている。「清和天皇様をお祀りするために存在している村」と感想を述べている。水尾の里は柚子(ゆず)と梅と樒(しきみ)の里でもある。嵯峨の奥、鳥居本から約7キロ、3時間の山道である。今はJR嵯峨野線保津峡駅から約3.6qである。上の日本画は当時京都絵画専門学校教授松本一洋氏の作品。本来の松という字がどうしても出てこない。お許しあれ。北山氏の本の表紙絵の一部である。日本画はイイ。原画を見たい気持ちがど素人の小生にも湧き上がるほどの絵だ。↓続く
(写真註:鎧を着た地蔵尊、勝軍地蔵という。)
勝軍(しょうぐん)地蔵、鎧を着た地蔵菩薩である。戦国時代は軍神として武士の信仰を集めた。平安京の北西の守護神であり、特に火除けの神として信仰されてきた。この火伏せの神花が樒(しきみ)である。水尾はまた愛宕社の表参道に近く、水尾の民がこの樒を売りに行っていたのである。先の項目で水尾の乙女が清水で洗っているのが樒である。樒とは仏に供えるあの樒ではあるが、愛宕神社になっても愛宕社は樒である。全体が有毒であるので注意。路地小生の周りではシキビという人のほうが多い。↓続く//→愛宕神社
(写真註:カグツチとは、密教では文殊菩薩(もんじゅぼさつ)だったりするのが日本の宗教。やはり文殊菩薩は獅子に乗っている。絵が下手で申し訳がないが花はボタンのつもり。今熊野神社のカグツチを写生しました。)
愛宕山にも天狗がいる。しかも大天狗だ。これも祀った。この太郎坊大権現はカグツチの化身であると言われてきた。明治4年の神仏分離令で修験道の愛宕権現は否定され白雲寺も廃寺となった。後は火の神カグツチを祀る愛宕神社として残った。カグツチはイザナギとイザナミの最後の子であるが、火の神ゆえに生まれるときに母イザナミの陰部に火傷を負わせた。ゆえにイザナミが黄泉の国に行き、怒った父イザナギに殺される。死体から多くの神が生まれた。今も『火廼要慎』(ひのようじん)の神であることには違いない。↓続く
愛宕山は京都と丹波の国境にあるその標高は924メートル。平均気温が京都市内と10度違うと言う。電気は来ているが節約が必要。携帯も通じない?という。湿度が高く、畳も腐るとのこと。信仰の山ではあるが、しかし楽しむ山でもある。落語の「愛宕山」でも知られている。そのせいどうかは知らぬが、中高年の山好きにとっても格好の山。そこに山があるから″などと生意気言ってた中高老年が「寒い」と大変。自分の足で下山できない。暖かい山があったら教えて欲しいと、宮司さんが嘆きながら注意してくれている。信仰心がない年寄りであっても今更のこと構わないが、せめて修験道の山だったと言うことぐらいは知っておくべきこと。下りるぐらい自分で下りろと言ったのは路地小生。これでまた山好きの人に嫌われたかな?↓続く
昔のことである。嵐山駅から清滝川駅までの線路と、清滝川駅から愛宕駅まで高低差640メートルのケーブルカーがあった。愛宕山鉄道会社である。昭和の初めの頃の話であるが、遊園地もホテルもあった。商売人のたくましさには敬意を払うが、商機は今だったのかもしれない。現に戦争末期昭和19年に全て廃止。もちろん戦後も復興されなかった。ために遊園地やホテルは取り壊すまもなく自然のままに朽ちていると。廃線敷は清滝行きのバスが通っている。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら)の脇のトンネルはその名残。片側通行信号付き。京都編indexに戻る/→愛宕念仏寺
京都はご存知大盆地。これが京都市内の景観のベースを作っている。遠くもなく近くもなくどこからでも山が見えると言う。と言いながら南の方は、伏見から宇治にかけては見はるかす広大な平地をなしている。都に居て南から北を見ると山が近い。北から南を見ると川が流れて土地が広がっている。これ誰にでも分かる風水。↓続く
山城盆地は瀬戸内海地溝帯の延長をなし、淀川筋から山城盆地、近江盆地を過ぎ北陸の敦賀湾に至る大なる凹地帯のその真ん中にあり太古満々たる山城湖というものであった。地形的に男山・山崎の間に隘路ができて高いところから陸地化し、京都はその山城湖の北端の地である。奈良に都があった時、京都方面は山の向こうで山背(やましろ)の国と言われていたが、長岡京、平安京造営とともに山城の国に名前を変えたのも分かりそうな気がする。しかもこの盆地は海につがっていた。これも風水としては完璧。何よりも浪速の海とつながる必要があった。国家官僚たちの地理感、経営感のレベルは今より高かった。と理解できる。↓続く
またこの盆地は桂川・鴨川・宇治川・木津川による堆積土砂によって形成された地面である。山城湖の名残の巨椋池に水を集め水の出口は中ほど大山崎、淀に集約された形になっている。各河川流域の上流から下流に地面が傾斜していると知ればなんか分かったような気になれるから不思議である。近江盆地の全ての水は宇治川によって、亀岡盆地の全ての水は桂川によって伊賀の国からは木津川によって全てがこの山城国の山城湖に、この山城湖の水はまた唯一の出口、淀川となって大阪湾に注ぐ。大事なのはここから浪速の海までゆったりと大河が流れること。これが淀川と山城盆地の特色である。↓続く
奈良時代の末には桂川・宇治川・木津川などが運んだ土砂の堆積でほぼ上の図のように山城湖の最深部が残って巨大な沼沢のようになっていた。桓武天皇がこの巨椋池の北、長岡京に遷都を断行できたのは、この巨椋池を使った水上運搬の利便に目を付けたというのは当然のことである。その中心が淀である。今でいえば大下津のあたりだと思われる。桂川の右岸にあたる。長岡京の港の役割を果たしていた。平安京は桂川の左岸に移る。残念ながら上の図では示せないが桂川を少し上流に進んだ地に至る。山城盆地の北の山地から流れて来た鴨川の合流点に至るところが鳥羽である。鳥羽の地は都の入口羅城門の真南約3キロ、ここが平安京の外港の役割を果たしていた。↓続く
都の外港の役割を果たすということは、水上交通として大坂や奈良に通じることである。とりわけ大坂の地は外洋と通じており、国内外の物資は水の流れと同じくまたは逆のルートで京都に入ってくるわけである。そのことをか確認するように織田・豊臣政権は大坂・堺に固守した。京都に城を作らなかった信長の狙いは全て大坂にあったと思われる。織田政権を強力に引き継いだ秀吉は自分の政権の都を現実に大坂においた。大坂と京都を結ぶ線上に自分の城下町伏見を整備し、伏見を都の外港とした。豊臣政権は土木的にも気宇壮大ではあったが短命であった。徳川政権になって京都が都の実権を失っても、伏見も大坂もその時の構想のまま大港湾都市として続くのである。京都と大阪は双子の都市である。同じく父母は巨椋池と淀川である。大和は兄であり、いとこが琵琶湖である。↓続く
水上交通は昭和の初めまでおおよそ千年の歴史になる。巨椋池と淀川の水運を担ったのは淀・納所(のうそ)である。瀬戸内海から平安京の都に通じる道(大坂街道)は淀・納所を通らねばならなかった。くしくもそれを証明したのが慶応4年(1861)の戊辰戦争淀千両松の戦いであった。↓淀・納所(のうそ)の話へ飛ぶ
山城湖の名残が巨椋池であるが、名残の巨椋池も明治以降の干拓によって陸地になった。広大な巨椋池が残っていれば今の盆地の景観ももっとスケールの大きなものであったと思う。それでも、京都の地面の下はやはり山城湖で、そこには琵琶湖に匹敵するほど大量の地下水があると言われている。京都水盆という。そこまでは科学的な話である。なお、本来都たるべき最大の条件がそこにもあったとするのが私の説。京都編indexに戻る
(写真註:平安京を南から俯瞰できる桃山の北側にある。桓武天皇陵は巨大な墳墓であったと言われるが、秀吉の伏見城廓の中に取り込まれた。正確な所在が不明であったと言われている。明治になってこの位置に)
平安京遷都の桓武天皇の御陵は桃山にある。桓武天皇(かんむてんのう)は38代天智天皇の孫49代光仁天皇の第一皇子、50代天皇として平城京から長岡京・平安京の遷都を断行した。遷都後約10年で崩御。崩御の後の御陵は、伏見桃山の柏原陵(かしわばらりょう)と言われるが、この地は後の秀吉の伏見城の敷地内にあたる。幕末に現在の位置に定められた。その後明治天皇の御陵が同じ桃山に設けられた。桓武天皇は平安京の最初の天皇であることから明治になって平安神宮の祭神に祀られることになる。↓続く
桓武天皇は40代半ば(781)で平城京で位につく、数年で長岡京に遷都、延暦6年(787)の記録によれば「水陸の便あるをもって都をここに遷す」と詔を発している。いかに中央集権国家といえど、その国家が政権を持ったままそっくり未開発の地に引っ越すというのは大事業であった。淀・山崎の港から多くの人と資材がこの長岡丘陵に集められ、ほぼ都の形を成すところまで造営が進んだ。桓武帝が平城京から山城の国乙訓(おとくに)郡に都を遷したのはそれなりに国家経営の見地からも妥当なものだったとも思えるが、その10年後、57歳になった桓武帝が再度平安京(葛野(かどの)郡)に遷さなければならなかったのは歴史の大きな謎であるのは間違いない。↓続く
遡ること48代女帝称徳天皇(46代孝謙天皇)には皇子がいなかった。かつ聖武天皇(45代・天武天皇系)にも皇位継承にふさわしい皇子がいなかった。その中で天智天皇(38代)系の光仁(こうにん)天皇(49代)が即位したのは宝亀元年(770)のこと。そのとき光仁天皇の即位に貢献したのが藤原百川(ふじわらのももかわ)。奈良時代の末から平安時代の初めに至って藤原氏の中でも権力の中枢にいたのが、中臣の鎌足の子の藤原不比等(ふひと)の子藤原四兄弟″のうちの三男宇合(うまかい)の藤原家でも式家と呼ばれる一統である。平安時代の摂関政治に至る前に当時この式家が活躍していた。光仁天皇は38代天智天皇の孫、白壁王と言ったが、聖武天皇(45代)第一皇女の井上内親王(いのえないしんのう)の間に他戸王(おさべおう)をもうけていたことを理由に、時に60才を超えており酒に韜晦(とうかい)していたのを百川の機略で即位させたという。井上内親王は先代称徳女帝の異母姉でもあった。↓続く
光仁(こうにん)天皇(49代)が即位したのは宝亀元年(770)のこと。光仁天皇61才、皇后井上内親王(いのえないしんのう)53才、山部(やまべ)親王(桓武天皇)33才、他に早良(さわら)親王20才。皇太子になった他戸(おさべ)親王9才(?)ということになる。皇后になった井上内親王は伊勢で斎宮を勤めていたが、30才のときに白壁王(光仁天皇)に嫁ぐ。45歳で他戸王を産む。白壁王が皇位を継いで後皇后となる。がその2年の後(772)のことである。皇后井上内親王が皇太子他戸親王の即位を願って天皇を厭魅(えんび)呪詛(じゅそ)したとの讒言(ざんげん)があった。光仁天皇は皇后と皇太子他戸親王を廃后・廃太子とした。その後、二人は庶人に落とされ大和の国五条に幽閉され、事件から3年後(775)に幽閉先で母と子同日に亡くなった。それゆえ毒殺である可能性も言われている。
厭魅というのは、道教の呪術であり異端な幻術の類である。人形(ひとがた)を相手に見立てて念を送って呪う方法である。奈良時代まだ密教的な祈祷の方法は確立されておらず、呪いも原始的だと思えるが、基本は丑の刻(うしのこく)参りのわら人形の原型の類(たぐい)である。呪いも祈りも人の心の奥の話である。が、それなりの形式を整えた呪術である限り効果も信じられていたのだろう。真偽の議論は別にしても、歴史として見ている我々には讒言者(ざんげんしゃ)は藤原百川のスジだろうと推察できる。それは藤原式家の長者藤原良継の娘乙牟漏(おとむろ)の夫である30台の青年皇族山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)を皇太子にすることが目的であり、現に他戸皇太子廃太子の翌年に立太子している。山部親王を立てるということは桓武天皇系の光仁天皇を推した藤原式家の狙いだろうと誰にでも分かる。
早良親王は桓武天皇の同母弟、母は高野新笠。11歳で出家していた。成人して奈良大安寺にて親王の禅師″と呼ばれていた。が時の光仁天皇の皇太子他戸(おさべ)が772.5年廃太子、後781.4年兄山部親王(44歳・桓武天皇)が即位、時還俗して桓武天皇の皇太子になる。時に早良親王30歳だった。ただ、桓武天皇には藤原乙牟漏(おとむろ)とに皇子安殿(おと)親王7歳がいた。事件は783.4年に藤原乙牟漏皇后に、784.11年に長岡遷都、785.9年長岡京造宮使藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、同月内に速やかに早良皇太子が廃太子となる。藤原種継は式家を代表して桓武帝を支える官僚。早良皇太子はその種継との折り合いが悪かったとされるが、還俗して4年ばかりで実の兄により淡路へ流されることとなった。食を断って無実を訴えながら配流の途中河内の国(守口)で憤死した。
100%皇位と無縁であった青年僧が、ありえないはずの父が皇位につき、また異母弟の皇太子に代わって実の兄が皇位を継ぎ、その兄の皇太子として・・長岡京の造営に関わっていた。・・のが、異母弟他戸(おさべ)親王が不運の死(775)を遂げての後10年で自らも廃太子に。藤原種継暗殺事件の真相は分かる由もないが、天皇の跡継ぎの皇太子が首謀者として捕えられるのは異様なことである。ともかくも親王の禅師″早良王は、皇太子になったことにより皇太子としては極めて短い高貴な駆け足の人生を自ら終わらせた″とすれば、憤死たる所以である。これから親王が長岡京・平安京を祟るという。路地小生の世相感は長岡京遷都が皇太子に祟ったと考えるべきではないかと思っている。この祟りは根深く平安京まで続くが、藤原式家の藤原種次の娘、薬子(くすこ)に引き継がれるのだ。それが「薬子の変」である。↓続くしかしながら工事中
結局早良親王(さわらしんのう)が平安京の怨霊第1号となる。それは平安京の成立に密接に絡んでいる。平安京が都市として着実に歩みだしたからであろう。人口密度の高さが都市である。天変地異一つ、落雷だって何人も死に、一たび火災が起これば町が焼き払われ、何千という人々が住まいを失う。疫病はまたたく間に都のに蔓延する。しかもそれには貴賤の差はない。それは都という都市だということでもある。怨霊が怖いのは正に都市市民であるからだ。 ↓続く
御霊(おんりょう)とはみたま″のこと。霊魂″のことであり、また怨霊(おんりょう)″のことでもある。非業の死を遂げたり憤死をしたりした怨霊のことである。信仰の対象となった霊魂のことでもある。その霊魂のを祀り、恨みを鎮め、その恨みの威力を借りて祟りや災禍を避けようとする都市信仰でである。日本の信仰は恐れを感じ畏怖するところから始まるものが多い。厄病も同じである。平安時代の初めのこの政変の中で悲運な生涯を遂げた霊魂を平安京を守る神として市民が祀ろうとしたことに始まる。それは政争に負けたまたは犠牲なった歴史上の敗者の短い歴史を記憶して祀るものでもあると思う。↓続く
桓武天皇の母は高野新笠。史書によると和乙継(やまとのおとつぐ)の娘。和氏は百済系帰化人。母は土師氏(後の大枝氏)。光仁天皇がまだ白壁王の時代に桓武天皇と早良王を設ける。しかし長子桓武天皇はその後、平城天皇(51代)・嵯峨天皇(52代)・淳和天皇(53代)と皇統が続くことになる。天智天皇の系統に戻った皇統はその中で桓武天皇の系統に続き、その後の皇族や、源氏の一統も平家の一統もここを始祖(はじめ)とすることになる。それは言い換えれば高野新笠の血を受け継いだということになる。歴史が証明するスーパーウーマン。↓続く
桓武帝にまつわるもう一つ大きな事件が「伊予親王の変」(大同2年(807))。伊予親王は桓武帝の第3皇子(783生まれ)。51代平城(へいぜい)天皇の異母弟である。母、藤原吉子(よしこ)は藤原南家・藤原雄友の妹。藤原宗成の言により謀反の罪で平城天皇により飛鳥の川原寺に幽閉されるも、母吉子とともに服毒自殺したとされる。藤原宗成も流罪になる。式家の藤原仲成(種継の長男・藤原薬子の兄)にそそのかされたと言う。この事件の連座して伊予親王の外戚になる母の藤原南家の勢力が減退。藤原氏が絡まった事件であるが、伊予親王は最後まで無実を訴えていたと言う。・・ことで母とともに京都朝廷を祟る神様となる。御霊会の京都を祟る神として祀られる2番目が伊予親王であり、3番目が藤原大夫人(吉子)となる。何故か藤原仲成の怨霊も入っているが、そのことについてはこの事件の後3年後(810)の「薬子の変」で触れたいと思う。京都編indexに戻る
伏見口から伏見へ通ずるのが伏見街道については前述した。京の七口の一つ竹田口から伏見までの街道が竹田街道。伏見街道のあと江戸時代初めに整備された。物資を牛車で運ぶのに便利なように石を敷いていた。現在は高倉通から京都駅の跨線橋を越えて八条、大石橋から、国道24号となり、その後深草から南下して中書島で外環と交差する。府道表示で言えば115号である。明治28年(1895)始めて電気鉄道が開通した年。京都電気鉄道会社線、京都駅前からこの道を通って伏見の油掛通、伏見駿河屋の前まで通った。電気鉄道発祥の街でもある。京都編indexに戻る
京都駅を出ると列車はまっすぐ東山トンネルへ入っていく。新幹線も同じだ。この在来線のルート、東山トンネルが東海道線として通ったのは大正10年(1921)のこと。それまで東海道線は京都駅を出て鴨川を渡って伏見街道に並行して稲荷まで行っていた。稲荷山の裾をぐるっと回って深草から東へ名神高速のルート(今は大岩街道と言う・府道35号線に沿う)を通って勧修寺(かんしゅうじ)・小野(おの)へ、という。そこまでは当然文献による話だが、元の東海道線が今のJR奈良線であることは、山城盆地をテーマにしている路地ログとしては興味深い話なので続けることにする。↓しばらく山科へ続く
(写真註:真言宗の本山の一つでありながら、静かなお寺である。)
話は旧東海道線を通って山科の方へしばらく走ることにする。大岩街道はトンネルがなくても東山を超えることのできる道である。明治・大正と東海道線はここを通っていた。今は、名神高速道路がこのルートである。トンネルがある訳でもないので、東山連峰を超えていることに気づきにくい。両側に山が見えなくなったら山科盆地に入った訳である。勧修寺(かじゅうじ)が山裾にある。地名はかんしゅうじ″と言っているが、お寺の名前はかじゅうじ″と言っていた。(以下、工事中)
カラスビシャクという植物がある。サトイモ科ハンゲ属になる。山地の畑の近くに多いので雑草に分類される。蛇が長い舌を出してこちらを見ているような形が珍しい。ザゼンソウやミズバショウの仲間でもある。実は薬草である。名前を半夏(ハンゲ)と言う。二十四節気夏至(げし)の末候(七十二候)に半夏(はんげ)生ず″というのがこれである。また、暦の中の雑節(暦要項に上げられたもの)の一つに半夏生(はんげしょう)と言うのがある。太陽黄径100度の日であり、。夏至(太陽黄径90度)から11日目を言う。そういうことで七十二候の半夏生ず″と雑節半夏生″はほぼ同一日となる。今年(2015)は7月2日にあたる。↓続く カラスビシャクを調べる/薬草半夏を調べる/七十二候を調べる/国立天文台暦要項を見る
(写真註:勧修寺の庭の半夏生。細長く垂れ下がったのが花、その花の付け根の葉が白くなる。)
ハンゲショウ(半夏生)と言う植物がある。こちらはドクダミ科の多年草、日の当たる湿地を好む。特色は葉の表面が真っ白に変化することである。したがって半化粧などと言われたりする。カタシログサと言われたもする。ドクダミに似た匂いもするが生薬としては用いない。花は穂のような花序、夏至を過ぎる頃から花をつけ葉の表面が白くなる。ということで、名前がハンゲショウ(半夏生)として名が通ることになった。建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)ではこの時期に合わせていつもは拝観できない庭を有料で公開するのが定着してきた。大勢の観光客と言うことだが、が、路地子はまだ、調査が出来ていない。それとハンゲショウには悪いけれど・・この花を主役に見立てて見るにはもう少し悟りか仏心が要るような気がする。↓続く
それでも半夏生を見てみたいという人は嵯峨の大覚寺に行けば大沢池の口のあたりにハンゲショウのほぼ自然な清楚な姿を見ることが出来る。池の傍を散策しながら見るのに丁度いい。もっとという人には山科の勧修寺を勧める。夏至の頃からは雨が多くなる。青一色のアジサイは見事だし、氷室の池のスイレンと一緒に群生するハンゲショウを見ることが出来る。時々ウシガエルの大きな鳴き声が聞こえる。小雨降るのがいい。梅雨なればこその風景である。拝観料はいるが、植物園で見るよりも自然である。そういうところがお寺のいいとこだと思う。花の季節が終わりかけると、ハンゲショウの苗を分けてくれたりする。仏と一緒に花を見ることだ出来るのを花の寺と言うべし。↓続く京都編indexに戻る
(写真註:JR奈良線宇治川鉄橋単線で渡る。単線のことを一車線という若い子がいた。その方がわかりやすい?)
JR奈良線は京都から木津まで34.7キロメートル、奈良線といいながら奈良県には線路が無い。実はこれ古往(むかし)の私鉄路線であったからからだ。今でも木津駅は関西線の駅であり、奈良線は木津駅が起点になっている。奈良線が国有化される前(明治40年・1907)は関西鉄道の線路であった。その前は奈良鉄道として明治29年(1895)に京都・奈良間で運転されていた。とある。ただ、その頃は京都から奈良へ向かう(※現在のJR奈良線)線路は京都から桃山までは今とは別のルートである近鉄京都線ルートを通っていた。要は大正10年の東海道線東山トンネルの開通(東海道線に切り替え)によってそれまでの東海道線が稲荷から桃山までつながって奈良線になった。現在の線形である。レール幅は狭軌(1067ミリ)である。↓続く
(写真註:近鉄京都線は桃山御陵駅を出て宇治川を渡る。宇治川を一跨ぎの宇治川橋梁)
近鉄京都線伏見駅は伏見区深草柴田屋敷町にある。最初には明治28年(1895)奈良鉄道の京都〜伏見間の終着駅伏見駅としてスタート。同じく38年(1905)関西鉄道伏見駅に、明治40年(1907)には国有鉄道の伏見駅になるが大正10年(1928)には東海道線の切り替えで廃止。その後昭和3年(1928)に旧国鉄の旧線路を利用して京都から桃山御陵、西大寺にいたるまでが奈良電気鉄道として開通。これにより現在の近鉄京都線の伏見駅となる。レール幅は標準軌(1143ミリ)である。京都編indexに戻る
(写真註:宇治川派流酒蔵(大倉記念館)の景色。水辺があると景色に艶が出る)
琵琶湖疏水の本流は岡崎の地から南下して墨染(すみぞめ)の発電所を経て伏見を流れる。濠川(ほりかわ)から宇治川派流(はりゅう)、河港であった伏見の浜に入る。今は三栖閘門(みすこうもん)のところから宇治川に落ちる。宇治川の付け根から取水され京都と伏見の街を巡ってまた宇治川に戻るまさに疏水″である。伏見の町が水の都といわれるにはこのような大掛かり運河機能が町の中にあったことにもよる。運河沿いに酒蔵など並ぶ姿は正に伏見の町の勢いと良き香りである。ところが今は運河の用が無いため水路に水が少ない。どちらを向いて流れているのかも分からないところもある。冬になれば水も無いこともある。琵琶湖から南禅寺までの琵琶湖疏水を観光資源にという動きが活発であるが、伏見の街こそ琵琶湖疏水の街として光を当てるべきではないか。京都編indexに戻る
琵琶湖の水は伏見に達し、三栖閘門の脇から宇治川に帰る。秀吉によって作られた伏見の城下町は巨大な港町でもあった。琵琶湖から来た水は山城湖の名残りの巨椋池に満々と溜められ、伏見の港から淀口を経て淀川を下って大阪湾の口天満まで達することが出来た。江戸期は幕府直轄の町として人の流れ・物流の拠点としてにぎわった。それが明治の蒸気船の時代まで続いた。それはどういうことかというとそれまでの伏見の港の水位は巨椋池と同じだと言うことである。太閤秀吉の時代から続いた宇治川堤、宇治川治水の働きは、大正年間に至って宇治川右岸の築堤工事はついに伏見港と宇治川の水位差によって舟運が出来ないようになった。昭和4年(1929)になって港の出口三栖に、伏見(濠川)と宇治川の間の閘門が作られた。と言うわけ。↓続く
この項、三栖閘門資料館の資料で書いている。建設当時のゲートの諸元から見ると最大水位差3から4メートルくらいだと思う。その後も宇治川改修が進み、上流に天ケ瀬ダムが完成したこともあって、宇治川の水位はますます低下し、閘門を使っての舟運は終わることになった。資料館の資料によれば昭和37年淀川の舟運がなくなったとの記述がある。完全な陸上交通オンリーの時代になってしまったと言え、残念ながら30年ほどで機能しないものになってしまった。現在の宇治川の日常の水位は三栖閘門の底からざっと2メートル以上は下がっているように見える。閘門延長83メートル中に伏見港(宇治川派流)観光10石舟の乗り場があり船頭がたむろしていたが、巨大な土木構造物の閘門とは完全なミスマッチ風景を感じた。↓続く/三栖閘門資料館
三栖閘門、大阪と京都を結ぶ重要な輸送手段であった舟運を確保し・・・・と言うことで、宇治発電所と同じく平成22年の土木学会の選奨土木遺産になっている。閘門として機能しない三栖閘門の方は本当に遺産。土木学会選奨土木遺産。→京都編indexに戻る
京都の地で唯一名水百選(環境省)″に上がっているのが、伏見の御香宮神社の「ご香水」。この御香宮は伏見の町の産土神(うぶすながみ)。古くから神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)を祀る。徳川体制になった時に伏見城から今の地に移る。本殿は家康の寄進。伏見は伏水とも書くくらいだから地下水に恵まれたところ。また、酒造りの町、さもあらんと納得できる。御香宮お参りの時に、一口飲ませてもらったが、その御香水の横の書きつけにこんなのがあった。『御香水を汲まれる皆様/水質維持の濾過機を設置しました。つきましては維持管理費のご協賛をお願いします。御香水保存会』・・ペットボトルに汲むにも時間がかかりそうな水量。杓で一口頂いたが、この看板に目が行ってから味が分らなくなった。お賽銭は少しだが・・↓続く/→御香宮
(写真註:黄桜酒造の工場にある伏水″常磐井と並んで酒造りにも使われている。一般の人や観光客が水を汲むときは右下に水栓があるので使用するときに開ける。)
実は環境省の名水百選は実は飲み水としての評価ではない。それでいいんだろうけど、伏見では困る。伏見には七名水ありとて、伏見新町のある酒造会社は常盤井″を守っている。桃山丘陵から傾斜した伏流水の流れでご香水と同じ水脈であることを誇っている。酒造りの命の水で、地元の人にも。・・と言っている。飲めない水だとは言っていない。硬度は61になっている。軟水または中硬水で美味しいミネラルウォーター状態。伏見の七名水(?)の一つだ。酒造りの水が飲用のためには濾過が必要だとは思えない。安全のためには構わないけど、それでは伏見の酒造産業は終わってしまう。名水を濾過したらなくなるのは伏見の味ではないのか?京都編indexに戻る
伏見は京都盆地の真ん中、今、京都市内からなだらかな丘陵の線に突出して見える城は桃山城。が、近鉄が遊園地のシンボルとして作ったもの。威風堂々たるものであるが天守だけの模擬城であることが分かる。しかしながら、京都盆地の何処からでも遠望が聞く。信長の安土城を越える立地だ。京都と大阪両方をにらむだけでなく、巨椋池を琵琶湖に見た偉容だったろうと思う。池は琵琶湖に小さくとも、経営の規模は遥かに大きい。秀吉の政治はその時すでに摂津・河内・和泉、摂河泉三国と播磨、大和、京都盆地を直轄にするだけで維持出来るほど強大であったというのが私の持論。京都編indexに戻る
(写真註:平安京を南から俯瞰できる桃山の桓武天皇陵の上にある伏見桃山城。秀吉の伏見城の位置ではない。近鉄が遊園地として作った鉄筋コンクリート製の模擬城である。・・が威風堂々としている。立地が良いためか立派である。遊園地は平成15年(2003)に廃業。)
伏見の地は徳川の時代に入っても京都大阪を抑えるのに重要さは変わりなかった。秀吉の没後の当時の伏見城の主は豊臣家の五大老の一人、家康であった。大阪から会津征伐に行く家康の留守城をまず石田光成側の小早川、島津連合軍が攻撃、ここごとく焼きつくした。これが西暦1600年(慶長5年)8月、この年これから関が原の戦いに続くことになる。その後徳川家の覇権が確立すると伏見城の再建にかかり、家康・秀忠・家光の三代が伏見城に来て将軍宣下を受けた。ただ一国一城の令により伏見城は約20年で廃城、取り壊しとなった。その後伏見は城の再建はなされ無いまま伏見奉行の管理する町として幕末、明治を迎えている。今豊臣・徳川2代の光芒の城のあと桃山は桓武天皇と明治天皇の御陵となっている。京都編indexに戻る
伏見に縁のある大名に小堀遠州(政一・遠江守)という人がいる。初め秀吉直参から後家康に仕え、関が原の戦いの後、備中松山城を得る。その後近江小室藩主(浅井郡小室今の長浜市小室町に陣屋1万石余)となる。築城とか作庭に秀でていた。茶人でも有名である。伏見の御香宮神社の作庭もこの人。この人江戸初期伏見奉行を兼ねる。伏見に屋敷を構える。武士にして茶人というのは、世間の流れに阿(おもねる)人種だと想像できるし、晩年は公金の流用など相当の疑惑のあった人らしい。↓続く
時代が進んで江戸中期。概ね5世のあと。時(安永8年・1779)の伏見奉行近江小室藩主小堀政方(まさみち)の悪政と苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を幕府に直訴する事件(一揆)が起きた。天明5年(1785)伏見本町年寄文殊九助(もんじゅくすけ)ら七人らが禁を破って伏見を脱出江戸に出て、幕府(寺社奉行宮津藩主松平伯耆守(ほうきのかみ))に直訴、だが2年の後江戸にて獄死した。この伏見奉行小堀政方は茶人の小堀遠州から7代、近江小室藩第6代城主。時の老中田沼意次(たぬまおきつぐ)派で大番頭(おおばんがしら)を勤め幕閣でも羽振りが良かった。がとんでもない食わせ者だった。幕府直轄領伏見と言えど幕府の目は届かなかった。直訴を受けてさすがに幕府は御用金10万両を小室藩の財政立て直しのために調達浪費流用の咎(とが)で伏見奉行を罷免した。大汚職である。翌年田沼の失脚、後松平定信(まつだいらさだのぶ)により近江小室藩は改易(かいえき)。小室藩は消滅した。という前段が天明伏見一揆。町人一揆の代表的事件である。伏見義民事跡″として小堀遠州作庭の御香宮神社の片隅に碑がある。京都編indexに戻る
伏見はほぼ秀吉の作った町。江戸政権に変わっても徳川直轄領としてかつ独立した町として存在してきたわけであるが・・明治になって紀伊郡伏見町となる。昭和4年には伏見市になる。ところが昭和6年(1976)に京都市に編入され伏見区となる。2年足らずであったが伏見市として市政を敷いたことがある。その時周辺の深草村・竹田村・横大路村・納所村・向島村・醍醐村など合わせて京都市に編入され伏見区になった。その後昭和32年に久世郡淀町を編入。伏見区は紀伊郡・久世郡・宇治郡の一部を合わせて3郡にまたがった区となる。十把一からげ物語。京都編indexに戻る
醍醐にある醍醐寺は真言宗の寺。起源は清和天皇の時代(874)まで遡る。弘法大師の孫弟子理源大師のがこんこんと水の湧き出る″この山に二体の観音をまつった。以後20数年醍醐天皇の時代に伽藍が完成したとある。何度も火災にあって荒廃していたのを秀吉の時代に再建された。秀吉の醍醐の花見で花の名所となる。こんな由緒の寺も明治維新後の「神仏分離令」や「修験道廃止令」などの廃仏毀釈運動で閉山の危機にも・・。明治22年の陸地測量部の地図によると、奈良街道沿いに民家があるものの醍醐寺や朱雀天皇陵などを中心とした水田地帯の様子が見れる。今は古都京都の世界遺産の一つでもある。↓つづく→*醍醐寺
修験道は7世紀役小角(えんのおづの・役行者(えんのぎょうじゃ)とも)を始祖とする。わが国独自の山岳信仰に新しく伝来した仏教の密教的信仰などが交った神仏混淆(こんこう)の宗教。自然を拝み、山を道場とし修行する山の宗教。自分の体を使って得られた超自然の呪力と神仏の力で悟りを得るのが山伏(やまぶし)や修験者(しゅげんしゃ)と言われる。大きな特色は、修験道の神は神仏習合の神であり、神も仏も分かちなく敬うところにある。近畿地方では熊野・吉野・大峰山・高野山などを道場とした。↓つづく
明治の廃仏稀釈の時にもっとも弾劾されたのが修験道。明治5年修験道廃止令が出る。醍醐寺は真言宗の当山派と言われ、江戸幕府によって我が国の修験道を統治する立場にあった。天台宗の聖護院(天台宗は本山派という)のどちらかに属さねばならなかった。醍醐寺を自然に上って行くと女人堂。それから先が上醍醐と言われる。笠取山をその場とした醍醐寺の本性の地。観音札所もここから小一時間も山を登ったところとなる。此の上にいる神は空海が神泉苑で修法の時に出現したと言われる「清瀧権現(せいりゅうごんげん)」という女神がいる。↓つづく
(註:安土桃山時代長谷川等伯によって絵がかれた善女龍王の姿をまねた鉛筆画です)
清瀧権現というのは女神である。インドの神話の龍神の王女にして善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と呼ばれてた。中国に伝わり密教の清龍(せいりゅう)となる。中国で密教を学んで日本に帰るときに空海を守って一緒に日本に渡った。日本に伝わって清瀧権現(せいりゅうごんげん)となる。空海に縁が深く、空海とともに高雄の神護寺や神泉苑に出現した訳である。醍醐山において真言密教を守護する立場にある。各地で祀られていた。本地仏は准胝観音(じゅんていかんのん)とされる。神仏分離(しんぶつぶんり)後は御神体を海津見神(わたつみのかみ)として残っている場合もある。↓続く
この湧水醍醐水″と言う。京都の名水の一つに選ばれている。上の醍醐の山上で湧いているもんで、健脚でないとそう易々と味わえるものではない。お寺の霊水でもある。ただ、三宝院まででいいという人には、ペットボトルに入ったものが売られている。広告によれば超軟水(硬度15程)。1本300ml、200円である。24本入ったケースならインターネットで注文も可能である。限定発売中とのこと。この世の中今になって宅配の水も商売になる世界だから、一度霊水醍醐水を頼むこともいいかも。↓続く→*醍醐水/京都編indexに戻る
歴史上の醍醐の花見は旧暦慶長3年3月15日のこと。満月の日。新暦(グレゴリオ暦)に換算すると1598年4月20日になる。20日に花見では少し遅いのではないかと思う人がいるかもしれないが、醍醐寺のサクラもヤマザクラやシダレザクラだったと思われる。ヤマザクラは奈良時代から盛んに平地に持ち込まれた野生の桜。元来は成長が遅く大木になる。日本全国サクラは自然交配で多くの品種があるが当時は多くは野生。豪気な花見を演出するには絶大な権力が要る。秀吉は下醍醐寺の三宝院などの伽藍の整備に長年力を注いでおり、あわせて、多くのサクラの木を運び入れたと推察できる。その権力の表現が花見であった。花は神であるという当時の人たちの信仰を土俵にしたものだと思うべきである。家族に恵まれなかった秀吉の一族の花だった。この年8月に秀吉没す。秀吉にとっても一世一代の花見だった。↓続く
バラ科のサクラはウメと同じく違う木との交配が得意。オオシマザクラを親として出現したサトザクラの一つで、その中でも我々がサクラと言ってるのはソメイヨシノ。公園などほぼこのサクラで統一されている。葉より先に花が咲くのが特徴。仮に"吉野″を名乗った。今はサクラの木の7割から8割がソメイヨシノと言われる。同じ遺伝子の樹木であるため開花予想にも使われる。寿命は普通60〜70年とされる。戦後植えられたものが老木になっている。吉野は修験道とサクラの山。醍醐のサクラも信仰の対象であった。4月の半ば以降に見頃が来るものでは今は具合が悪い。新しく植えたサクラは園芸種のソメイヨシノである。秀吉の時代の人が見ていたサクラとは違う。今はどこも同じものになっていく。園芸種だと言って吉野のサクラの代用品や劣等財と言うつもりはない。ただ、ソメイヨシノだけがサクラではないと言いたいわけです。↓続く
その園芸種で一重で早咲きの品種がソメイヨシノだった。太陽暦(新暦)では満開の平年値は東京で4月3日である、大阪・京都では4月5日である。いつも東京の方が先に咲くが、どちらも4月1日のサクラが一等。も一つ新暦の4月1日が年度初めである日本にとって極めて重要なこと。明治の近代化の波の中でソメイヨシノの苗木が一世風靡(いっせいふうび)″することになった理由がそこにある。都市には公園が必要だった。政府も軍隊にも学校にも・・社寺にも・・明治以降また戦後の日本にとって新しく神の宿る木として相応しい花だったのではないかと思っている。京都編indexに戻る
京都山科の名所と言えば、勧修寺や随心院、大石神社、山科の毘沙門堂など一度は訪ねてみたいところが多いが、この醍醐寺も山科と思いきや実は醍醐は伏見区である。宇治郡醍醐村は昭和6年(1931)京都市伏見区に編入された。山科盆地は旧東海道の近江と山城の国境山科追分から巨椋池につながる盆地。この山科盆地を貫いて伏見へ向かう街道である。都を通らずに伏見は向かうことから伏見街道ともいう。
伏見(六地蔵)から南へ進めば府道7号(京都宇治線)で黄檗山万福寺の前を通って宇治へ行く奈良街道。山科盆地は東山山系を挟んで京都盆地と双子の盆地で伏見のところで繋がっている。伏見から山科盆地を進めは直接東海道へつながる。そこに秀吉の伏見城のもう一つの謎がある。都を見晴らすだけでなく、東海道方面・奈良方面・大阪方面の扇の要の地が伏見であった。↓続く
(写真註:大善寺伏見地蔵(六地蔵))
旧東海道追分から山科盆地を南下して奈良・伏見へ向かう伏見街道は奈良街道でもある。京都から奈良へ向かう街道も奈良街道でもある。その二つの街道が合流して分岐するのが木幡(こわた)の里である。伏見にも奈良にも東海道にも出られる訳は前項で述べた。今は一般的に六地蔵と言われる。太閤の伏見城時代であれば城下のはずれである。
この地にあるのが大善寺(伏見区桃山西)である。平安時代初期に地獄から帰った小野篁が地獄で見てきた地蔵を六体彫って安置したと伝えられる。六地蔵である。
保元元年、後白河天皇の時代、保元の乱で勝利した平清盛の命により、都の通じる主要街道の入口(鳥羽・桂・常盤・鞍馬口・山科)にそれぞれ分けて祀った。ためにこの六地蔵は一体の地蔵尊になった。
この大善寺の地はそのことから六地蔵の名を冠する土地であったが、明治以降京都市に編入されて六地蔵の地名は消滅した。なお、JR六地蔵駅の所在地である元宇治郡宇治町域である宇治市には宇治市六地蔵として地名として残っている。↓続く
(写真註:孝子の月の小野篁)
小野篁(おののたかむら・802-852)は平安時代の初期の公卿、学者・歌人でもある。
変に気骨のある人であり野宰相(やさいしょう)とも呼ばれるとある。
小野氏は幾筋かあるが、名門武士の祖である。
野太とか弥太郎とかいう名は小野氏の長男を言っていた。
六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道のこと。
餓鬼のくせに″私は人間道にいる”などと勘違いしてはいけない。
浮世で生きている限り迷いばかりでぐるぐる輪廻(りんね)している。
輪廻転生(りんねてんしょうとは)とはぐるぐる回ることだけを意味している。
生まれ変わることとすれば人は一生の内何度も生まれ変わっている。
地獄は死者の国であるが、現世とは密接につながっており、地獄も同じである。
小野篁はこの世と地獄と行き来していたと言われる。
閻魔大王が冥界の王である所以は、”真理に忠実なものと偽りを語るものを厳密に区別する”ことにある。
死してゆくところは他界であるが、他界とは閻魔大王の世界のことを言う。
閻魔大王は自分の世界に到着した人の善悪の行為をはかる裁判長である。
子供時分から機会あるごとに教えられた閻魔大王の世界でもある。
生きた小野篁がこの世と地獄と行き来できるということは大事なことで、地獄はそう遠い世界ではないように思える。
しかも、小野篁は閻魔大王の書記を勤めていたと言う。
極めて浮世と似た話である、急に地獄が怖くなる。
閻魔大王の前では浮世で堂々とまかり通ってきた嘘や善人面は通らないと言える。
この世の裁きは不条理なものであるが地獄では真実だけが通る。
人々はそのことに救いを感じるのである。
いいことばかりしてきたという人も閻魔の厳しい審理に合えば化けの皮がはがされる。
地獄もこの世も同じであるが、地獄には真理がある。
そのかわり地獄でも我ら凡夫はまた六道を流転するという。
地獄の責め苦は輪廻転生である、業が尽きれば人間道に転生出来るかもしれない。
上手くすれば地獄と言う闇の国から極楽と言う光の国へ行けるかもしれない。
肉体は土の中でバクテリアによってガスと水になる。
その過程は地獄の責め苦に似ている。
骨だけになってしまえば魂が存在しないことは理解できる。
が、それでも成仏しないものもいるかもしれない。
地獄の王は閻魔だが、人を裁く閻魔は、日に三度白熱した溶銅の汁を飲んで自らの皮肉を焼いて悶絶すると言う。地獄で最も苦しむものが閻魔なのである。だからこそ閻魔は人を裁くことができる。裁くのではなく生前の善を助け、悪を消してくれると言う。地獄での裁きを終えた閻魔は姿を変えて地蔵菩薩となる。と人々は信じた。地獄にも仏がいる、としたら地蔵菩薩だけなのである。
現代に至れば、屍は24時間をおいて焼却される。焼却は地獄の責め苦に似ているが、その代わり地獄まで肉体をもっていかなくてもいい。火葬場の煙突から天に上る気体を見て祈るだけだ。死を見つめつつ生きていける宗教観が必要かもしれない。
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(写真註:與杼(淀)神社は、)
延喜式(901〜)にも名のある神社である。淀(よど)・納所(のうそ)・水垂(みずたれ)・大下津(おおしもず)というのは長岡京及び平安京の外港であり都の戦略的な極めて重要な位置を占めていたことは以前にも語った。與杼神社というのはその地の産土神(うぶすながみ)である。図にある、淀城の対岸水垂村に鳥居の印があるのが與杼神社である。しかし、明治中頃、桂川の拡幅工事のために現在の淀城跡に移転した。多くの重要文化財も持っていたが、不幸にも昭和50年に未成年者の花火遊びにより全焼した。その後遷座100年を記念して平成12年(2000)に社務所が建った。與杼城址のシンボル的存在である。が隣接する地元の商店街の沈んだ状態を目の当たりにすると淀の町の今を反映しているようで心寂しさを隠せない。↓続く
淀の地は木津川・宇治川・桂川の出口に浮かぶ水上都市である。徳川の時代に入っても京都大阪を抑えるのに重要さは変わりなかった。徳川淀城は2代秀忠の時代に松平家が3万5千石で入部したのに始まる。伏見城の資材を移築して幕府の力で築城された。以後21代10代目から稲葉家が10万石で城主となり幕末まで続く。落雷で天守を失って再建されることはなかったけれど、必然の要害であったため大きな堅固な城であった。ただ資料によると、淀の地の田畑ではもともと2から3万石くらいがせいぜいで、その城を維持していく領地を淀の地以外数カ国に持っていたとという経済的欠点があったようである。その目的から言えば幕府内部で山城南部(伏見以南の京都府域)30万石くらいの財力は必要だったかもしれない。↓続く
(写真註:戊辰戦争の頃の淀・納所・図右上至伏見と書いているあたりが千両松。伏見から淀までが鳥羽伏見の戦いの激戦場となった。)
戊辰戦争の始まり、鳥羽伏見の戦いの主戦場なったのは幕府側の主要な領地内であった。幕府軍は千両松でも納所でも持ちこたえられなかったが、それでも後方に時の筆頭老中稲葉正邦の淀城に入りさえすれば戦略上十分に京都を巻き返せるはずだったのが、淀藩の国元侍は淀の城を開かなかった。淀城の使命は幕府が京都を押さえるためのものでありながら、見事にその使命を果たさなかった。戊辰の戦争が江戸城を明け渡して、なお東北、函館にまで及ぶこととなった。戦いを陣地戦略で見た場合、伏見・淀・大阪がある限り・・だったはずである。逆に言えば、京都征服者秀吉が淀・大阪を押さえることで、京都での覇権を維持していくための戦略として正しかったとも言えるのではないか。ただ、それは京都戦略であり、京都を江戸や東京に置き換えてしまえば、戦略としての根拠は一切なくなってしまう。徳川体制でもって行かれた京都の覇権を、明治になってもう一度改めて東京にもって行く。ご一新という限りそれぐらいのことが無ければならないのだと思う。
(写真註:藩祖稲葉候を祀る稲葉神社。淀城跡は10万石の譜代大名の居城跡とは信じられないくらい荒れている(何もない)。その城址にある。隣接してあるのは式内與杼神社。稲葉神社は社務所も閉まっている。城跡は京都市の公園事務所が管理しているが、秩序的ではない。)
その淀城跡にひっそりと建つのが稲葉神社。祭神は稲葉正成候。淀藩稲葉家の祖である。美濃の国十七条の林家に生まれ、稲葉重通の女婿になったが、妻の死去により明智光秀の重臣斉藤利三の娘福を重通の養女として迎え再婚したのが後の「春日局」。正成は秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老として五万石を領した。云々・・・"とある。戦国時代最後に生き残った武将の匂いがきつい。淀城主になったのはそれから数代後、春日の局のおかげで生え抜き譜代大名の扱いであった。↓続く
それにしても維新以来の寂れかたはひどい。明治には淀川の水上交通が盛んだったといわれているが、それも淀川・巨椋池(おぐらいけ)あってのこと。その後の町に淀藩時代の名残が無いのである。お城本丸堀さえ京阪電車のホームに取られ、土日・乗り降りする人は淀というのは競馬の歴史でしか知らない街になってしまった。高架工事のおかげで尚更歴史という個性を失っていっている。行政区は京都市内であるが、伏見は伏見だし、それ以上に淀は淀。それ以上に10万石の城下町文化が消えたのは例が少ないのではないだろうか。そんなことを語る住民と逢ったことがない。京都市の最僻地として扱われたままである。せめて淀区くらいの扱いがあってもよかった?京都編indexに戻る
上の下手な地図をもう一度見ていただくと、地図のほぼ真ん中に西一口″というところがある。難解地名の一つで、一口というのをいもあらい″と読む。地図では御牧(みまき)村西一口ということになる。難解地名の講釈は「路地ろぐ」では省略させていただくが、地形的には巨椋池(おぐらいけ)の出口に位置どっている(参照地図)ことが理解していただけると思う。中世ここにも城があった。西一口(にしいもあらい)城という。現に、戦国時代末期元亀元年(1570)には阿波の三好勢が山城に侵入しこの西一口城を攻め落としたとある。しかし、その後天正に入って(1973)、信長の命により勝竜寺城主細川氏や木下秀吉隊により奪い返されたとある。織田政権は早くからこの巨椋池の重要性に気付いていたことが分かる。同じ時代の納所(のうそ)城、淀(よど)城などと並んでこの巨椋池(おぐらいけ)と山城地方を支配する戦術的な城であったと思われる。↓続く。
(写真註:710年創建と言われる玉田神社。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)他)
御牧勘兵衛という戦国時代の武将がいる。歴史研究では織田・豊臣時代に近畿の代官を務め、特に豊臣政権の検地等に手腕を発揮した人物らしい。豊臣政権は在地の土豪の経済的地盤を解体し、石高制の下で代官による支配と中央統制を目指したものと言われる。久御山町森にある玉田(たまた)神社の棟札によれば、天正15年(1586)時の城主御牧勘兵衛尉尚秀が願主となり社殿を再建したとある。天正15年と言えば秀吉が九州地方を平定した年であり豊臣勢力が絶頂の時に秀吉に仕え御牧村当たりを領していたことが分かる。秀吉が茶々のために築いた淀城は納所(のうそ)にあったが、その湖上の対岸の重要拠点を領してしていたこともわかる。御牧勘兵衛、秀吉の醍醐の花見で登場する・・↓続く
徳川体制になって山城の国には4っつの藩が置かれた。1607年には久松松平家が、1623年には淀藩が、久松松平家が伏見から、1633年には永井家が長岡に封じられた。もう一っそれより早く1600年に津田家が御牧勘兵衛云々の御牧(みまき)に封じられていた。藩主は津田信成、織田家の庶流であったのが秀吉に仕え3万5千石、後1万5千石、関ヶ原の時に東軍(徳川方)に組し所領を安堵されて徳川体制で御牧藩主となる。しかし、7年後慶長12年(1607)京都の祇園で藩主が狼藉事件を起こし素行不良で御牧藩は改易となった。のち伏見藩、長岡藩ともに移封により廃藩、そういうことで江戸期の長きに渡って山城の国は淀藩稲葉家10万2千石のみが封建領主として存在した。御牧(みまき)とは牧場(まきば)の牧である。名馬の伝説の土地もあるが、御牧村は湖沼のほとりの村に戻って巨椋池とともに歴史の騒がしさから離れていく。↓続く
久御山町は町の約半分が巨椋池(おぐらいけ)干拓地(かんたくち)である。久御山町というのはなじみの薄い名称だ。宇治川の対岸に淀に隣接した久世郡の御牧村(みまきむら)と狭山村(さやまむら)が昭和29年に合併して出来た(参照図)。久″と御″と山″で久御山となった。約60年前である。それでもも一つなじみが薄いのは、鉄道の駅がないからである。巨椋池の干拓の後淡水漁業はなくなった。農業の盛んな町になった。工場も多い。商業も盛んになってきた。高速道路が町を幾本も通るが、それでは町の姿が見えない。町の中央を南北に国道1号線が通る。1号線を通行する人は多い。ここが久御山というのは、イオンモール久御山(久御山町大字森)あたりだ。15年ほど前に出来た。土地建物は京阪電鉄鰍ニいうことだ。京都編indexに戻る
(写真註:京阪電車八幡市(やわたし)駅からケーブルで上がってくることが出来る。そこからまだ少し歩く。帰りは参道を歩いて下られたい・・)
15代応神天皇(その名ホンダワケノミコト)、その母神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)を祭神として祀るのが石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)。淀の地に隣して山城盆地の出口に岬のようにあるのが男山(おとこやま)。大阪平野と山城盆地(または奈良盆地)の境に高からず低からず位置する生駒山脈の最北端男山に位置する。淀川一本隔て対岸は天王山(てんのうざん)。日本列島の往来の軸はこの二つの狭い山の間を通る。大阪へ西国へ、南海道四国・西海道九州へ通じる道を見はるかす位置にあるのが石清水八幡宮。都からは南西の方角、都の裏鬼門(うらきもん)を護るといういわれになる。石清水八幡宮
(写真註:最澄や空海も仏教の寺院の鎮守に勧請した。東大寺には手向け山八幡宮、薬師寺のも東寺にも八幡神が祀られる。)
この石清水八幡宮の祭神。その元は九州豊前の国宇佐八幡宮の八幡(やはた)神。九この地方は古くから銅の山地で、鉱業と鍛冶の神様であったようだ。豪族宇佐氏の氏神であったという。神武天皇の皇子、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という説もある。749年聖武天皇の時代に東大寺大仏建立にあたって託宣(たくせん)を下す、大仏の成功によって、国家の崇敬をうける神となる。大和朝廷も早くから国家の鎮護と仏教の守護をする神としていた。天応元年(781)第50代平城京の桓武天皇の時代に八幡神(はちまんじん)に「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)の称号を贈った。我が国最初の神仏習合の神となった。
平安時代に入って、奈良大安寺の僧行教(ぎょうきょう)は石清水(いわしみず)の丘に八幡神(はちまんじん)を祀った。第56代清和天皇の時代(860)に社殿を設けた。それが石清水八幡宮である。平安時代前期に八幡神(はちまんじん)は応神天皇(おうじんてんのう)、その母神功皇后(じんぐうこうごう)であるとされ、それによって皇室を守護とする神として祀られるようになった。以後、神仏習合の例によって、八幡大菩薩であるとともにホンダワケノミコト(応神天皇)と同一視されていた。平安後期になると武士階層が台頭し、八幡神(はちまんじん)を武神として崇め、特に、清和天皇は源氏の祖、武家の源氏が八幡神を氏神とし全国各地に勧請した。石清水八幡宮の社格は極めて高く、二十二社(*別註)の中でも上七社(*別註)に位置づけられる。しかも伊勢の神宮に次ぐ社格である。
本地垂迹(*別註)の思想では八幡神は阿弥陀如来(あみだにょらい)の化身とも言われる。神仏習合の実態は複雑であるが、そんなことで八幡神(はちまんじん)への信仰は厚く、全国の1万も2万もの社があるといわれる。この社も明治の神仏分離(しんぶつぶんり)、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)まではご神体を僧侶が守っていた。明治元年(慶応4年・1868)の神仏分離令は神道のみを国教とする一方で廃仏運動でもあり、旧弊を一新すると・・八幡社は応神天皇をご神体とし、神宮寺は廃され、僧は還俗させられた。全山の多くの仏教的堂宇が毀され、仏像・仏具が捨てられた。元の神名・地名に改めよということで国家神道として官幣大社(かんぺいたいしゃ)男山八幡宮となっていく。その後名前は石清水八幡宮に戻す。それでも大変賑わった。京都編indexに戻る
松花堂弁当、石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう・1584-1639)の宿坊に名前を由来する。男山には八幡社に所属する宿坊が四十八と言われるほどあった。これら宿坊も明治の神仏分離で全て毀(こぼ)たれた。生き延びて三代も続けば上手くすれば門前の茶店ですらいまどきは高級料亭と言われるくらいの変化はおかしくないのに、石清水には何も残らなかった。日本全国の皆さんが方々で味わっておられる松花堂弁当は、むしろその後昭和の時代の料亭吉兆(きっちょう)の考案で広まったもの。八幡社の文化とは直接的なつながりはない。食い物の歴史というのは仕掛け″の世界だと思う。明治は松花堂昭乗の生きた時代から、270年も後の話。吉兆は別にしても、料理屋の何の変哲もない弁当に松花堂弁当の名前がついている。仕掛けた名前だけが残ってしまった。そんな手こねのいわれは当の松花堂にもどこか本気になれないって?京都編indexに戻る
「秀吉に力を入れた薀蓄になってしまったけど仕方がない。大阪の街も伏見の街も京都の街も原型は秀吉一人の権勢が作ったもの。大阪・伏見・京都の三都では、それ以上それを越える都市建設は存在していない。秀吉のときの理念のまま膨張してきたというのが私の土木技術的都市論。秀吉を越えた分の都市建設の理念とエネルギーは以後一切江戸に移ることになる。その上に維新後再度の都市建設、戦後再再度の都市建設のため東京は新都のままだ。日本人が古都というのはいにしえの″という意味だけであるが、都市計画論では400年も続いた東京も十分に歴史あるという意味で古都と言えるものでもある。
戦国割拠の時代が地の利のいいところに出現した一人の英雄によって収斂(しゅうれん)していく。覇権争いとして見ても確かに面白いが、それぞれが強烈な個性を持って政権運営をしていく様は政治史を超える。政権の推移がまた一気に時代を進めてしまう面白さがそこにはある。信長から家康までの時代は表の歴史だけでも面白い。仮に信長政権から同盟者家康に覇権が移ったとしても面白かっただろうけど、その間に誕生した豊臣政権は歴史に花を咲かせた。しかも桜の花のような見事さだった。豊臣政権が散ってしまったとき京都も同じように事実上の都でなくなった。しかし散ってしまった後も京都や大阪が都市として残れた仕掛けがそのときにある。のである。京都編indexに戻る
外史巻之一平氏によれば
『清盛、子重衡(しげひら)を遣わし、二万騎に将として、追うて宇治河に撃たしむ。王、平等院に入り、橋を断って軍す。・・』
王とは後白河法王の第三皇子の以仁王(もちひとおう)のこと。この時王29歳。治承4年(1180)、源三位頼政(げんさんみよりまさ)とともに平氏打倒の最初の挙兵。院宣により臣籍降下の上、追討を受ける身になる。5月平等院に陣を敷き平氏と闘うが源頼政は自刃、王も木津川にて流れ矢にあたって死す。源平合戦の始りはこの戦い。平等院が舞台。年表によればこの年6月清盛は福原遷都を実施。だが、8月に以仁王の令を受けた源頼朝の挙兵。源平の戦が始まった。→祇園祭・浄妙山
以仁王は後白河法皇の親王時代の皇子、気鋭の青年皇族で皇位を望む気もあったかも知れない。高倉の宮とも言われていたが、親王宣下はなし。母は大納言藤原家ながら、大きな後ろ盾もなく、何よりも平家全盛の時代。異母弟は清盛の妻の妹の生んだ高倉天皇、それに清盛の娘徳子(建礼門院)に清盛を外祖父とする皇子(安徳天皇)が誕生している。準備が整わないまま頼政の神輿に乗ってしまって南山城で命を落とす。悲劇の主人公ながらその後結局はそれが平家に源氏が取って代わるきっかけとなった。そのためか丹波の国綾部市高倉町にある高倉神社のご祭神は以仁王。そこまで逃れて死んだと由緒書にある。「高倉天一大明神」という。他に山城から逃れ会津から越後への山越え街道八十里越(はちじゅうりごえ・国道289号線)というところで家来と暮らしたという伝説も読んだことがあるが・・京都編indexに戻る
(写真註:悲運の以仁王を祀る神社。右に王墓がある。王墓は宮内庁の管理。)
合戦の地平等院から南に、奈良に向かって約15キロ、木津川市(合併前は山城町)に入ったところに高倉神社(たかくら)という祠がある。このあたりには往古(むかし)光明山寺(こうみょうさんじ)の伽藍(がらん)と寺地があったと言われ、その鳥居の門前まで逃げてきたが矢に射られて落馬して首を取られた。南都興福寺等の僧兵らは反平家の総大将高倉宮以仁王を迎えに大和街道木津まで来ていたという。「宮の御運の程こそうたてけり(むごく気の毒なさま)」と平家物語にある。平家政権はほぼ末期的な状況にあった。あと5キロばかり逃げ切れれば、7千の甲冑の僧兵たちに合体しておれば、若き気鋭の皇子として少しは違った活躍が出来たかもしれない。↓続く
(写真註:写真中央が筒井浄妙の墓と言われる浄妙塚。右手のこんもりした森が、高倉神社。電車はJR奈良線。)
この地の一角に以仁王の墓、と高倉神社が営まれている。平安時代には勢力を誇ったと言われる光明山寺(こうみょうさんじ)跡も山間の草原と化し、それに続いてこのあたりもまことにのどかな田園地帯である。こんもりとした小山の裾にささやかながら神社が営まれている。南に向いている。それと一体に宮内庁が管理する王の墓がある。いずれにしろこの地の人々がこの地で非業の死を遂げた以仁王とその従者の御霊を祀ってきたものだろうと思う。何故かその南ほぼ100メートルには浄妙塚(じょうみょうつか)がある。浄妙というのは三井寺の僧兵でこの宇治川の合戦で活躍した、その活躍ぶりが祇園祭の浄妙山のいわれ。ほとんど一本の大木が畑の中に立っている。これも宮内庁が管理しているのこと。↓続く/→*祇園祭・浄妙山
そんな後の人の気持ちが、以仁王はこの地で死んでいないという伝記が残ることとなった。この年治承4年(1180)であった。ただ、たとえ会津まで逃げ延びたとしても所詮同じこと、時代の変わり目を生き延びることが大事だった。源氏による武家政権が樹立されるのは、それから数年のことでもあった。そういう意味では以仁王は必ずしも敗者ではない。以仁王の平家追討の令旨(れいじ)が届いて頼朝が立った。武家政権(中世)に向かって大きく舵が切られた。その中での勝者は父の後白河法皇である。以仁王は勝者でもない。それも悲運である。歴史を知る我々には、歴史を変えるきっかけを作った人であったことは知っている。これを治承(じしょう)の乱(または、治承・寿永の乱)と言う。世にいう源平の戦いのことである。と言えば分かりやすいか。↓続く
以仁王(もちひとおう)の令により先に京都に入ったのは源義仲(よしなか)木曽の育ち。一時は征東将軍の地位にあったが77代後白河法皇(1127即位)の信頼を失い、院は源氏の長者源頼朝に義仲追討の命を下す。義仲は西国に落ちるつもりであったがそれもならず都を背に守り陣を敷いたのが宇治川の右岸(北岸)、頼朝軍の指揮官が源義経。伊賀・近江からの道はこの宇治川の左岸(南岸)平等院のところに達して、大軍が戦いながらこの激流を渡ってはじめて京都に入れる分である。宇治川の戦いは頼政が討たれた宇治川平等院の戦いの時から4年後寿永3年(1184)のこと、義仲が討たれ義経が登場する第一幕がこの宇治川での戦いであるというのが平家物語(宇治川の先陣争そい)の下り。義仲は都を追われるように女武者巴とともに近江まで逃れるが・・。京都の南の堀が宇治川である。京都編indexに戻る
(写真註:京都八条通りにある六孫王(ろくそんおう)神社。清和源氏初代源経基を祀る。経基の屋敷跡という。)
清和源氏(せいわげんじ)というのは56代清和天皇(858即位)の皇子貞純親王(さだずみしんのう)の子、六孫王経基(ろくそんのうつねもと)のときに源性をもらって臣籍に、これを清和源氏初代とした。経基の子多田満仲(ただみつなか)の子で摂津に基盤を置いた頼光(よりみつ)の流れが源頼政。摂津源氏と言われる流れ。平氏政権の中で源氏の長者として従三位(じゅさんみ・公卿)まで上った。が、この時に滅ぶ。
その後に台頭したのが河内源氏、満仲の子頼信(よりのぶ)を祖とする。頼信から2代八幡太郎義家(よしいえ)からまた2代為義(ためよし)の子義朝(よしとも)の子が頼朝・義経となる。同じく為義の子義賢(よしかた)の子が義仲。頼朝・義経の従兄弟になる。一度滅んだ義朝の家が頼朝・義経によって盛り返し、源氏の長者として武士の棟梁になっていく。後白河院の世に平氏が滅んで摂津源氏が滅んで、河内源氏の中でも義仲が滅んで、異母弟義経が滅んで一度源氏の血が頼朝に収斂したことによって武士の世界(覇権)に代わっていくことになる。ここまでの人はこれらみな京都で生まれた人。
宇治駅までJR奈良線京都駅から営業距離で14.9キロ。宇治の地は平安時代早くから藤原家や貴族の別荘地、平安時代後期(1052)には関白藤原頼道が平等院を建立する。今の行政区域では京都市の伏見区の南に隣接する。瀬田川沿いの道で滋賀県大津市にも隣接する。そもそもこの宇治川は近江一国の水を集めた琵琶湖の唯一の出口、山間を浸食して流れてきた川が山城盆地にはじめて出てきたところが宇治である。しかもここより下流は山城湖の名残、道も無き大沼沢であった。宇治市の行政区域の西半分は巨椋池(おぐらいけ)と言うことになる。風光明媚ということは水の世界。川と湖の世界。末法思想時代には特に極楽も水があっての世界。平等院がここであって不思議はない。しかし、巨椋池に入る前の宇治川は激流だった。ここを渡って通ずるのが京都奈良の道。京都編indexに戻る