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路地ろぐ京都編(第2章)
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路地ろぐ(京都編)

新切鰺(しんぎれあじ)の京都巷談。新切鰺は都市漂泊。舌足らず言いっぱなし巷談です。薀蓄もどきは飛ばして読んでください。京都の暮らしの横断面図。以下前ページに同じ。京都編第2章です。250605


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京都編第2章


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御池通

御池中学

(写真註:京都御池創生館/御池通りに面して昔の柳池小学校の地には立派な建物がが建っている。民間の力を活用した事業であるが、明治の初めにはもっと大きな民間の力で小学校だけでない複合施設が既に出来ていた、そう驚くほどのことではない)

この柳池(りゅうち)小学校。明治の「番組小学校」の内でも最初に出来た(明治2年(1869))。だから、日本最初の小学校。後の御池国民学校になったのを、戦後転用して新制の御池中学となる。平成19年現在の建物になる。写真に見るように市立の中学校としても立派な建物である。これ京都御池創生館と言って中学校の他、保育園、地域包括支援センターや賑わいの一般施設の合築である。グラウンドを囲むように上の階が中学校になっている。PFI(ぴーえふあい)事業によって、2006年に竣工した。建築設計や施工は建築のスーパーゼネコン竹中工務店など、代表企業は三菱UFIリースということ。このビルの運営をしている。京都編indexに戻る*竹中工務店//→*三菱UFIリース



建武の徳政令

少し歴史が戻り若干複雑になるが、後のためにキーになるので少し辛抱いただきたい。鎌倉幕府(北条家)が滅んだのは正慶元年(1332)、後醍醐天皇が隠岐を脱出した年である。六波羅陥ち鎌倉が陥ちた。翌年後醍醐天皇の親政が始まる。この年に出されたのが「徳政令」。後醍醐天皇が笠置(かさぎ)に逃れ、その間に光厳天皇が即位していた。改めて後醍醐体制に戻すために出した法令である。要は自分が隠岐に流されている間に生じた悪政による権利は無効であるとした。鎌倉幕府討伐に働きのあったものをの所領を戻すことが法令の目的だったとされる。しかし、それは債権債務の無効につながった。結果的に土地を元の所有者に、借財を棒引きにするいわゆる徳政令″になってしまった。時を逆に動かすその思想である。土地所有が原点である。歴史を学ぶのものに面白いのはであるが、実はこれが室町時代の大きなキーワードになる。京都編indexに戻る


足利将軍

難儀と言う言葉がある。京都という都市(まち)が一番に難儀した時代は室町時代だろう。室町時代は1336年足利尊氏が北朝光明天皇より征夷大将軍に任ぜられたのに始まる。足利将軍家は15代(253年間)続くが、室町時代の中の前の方は南北朝時代(56年間)だし、後半は戦国時代(約110年間)である。幕府政治が機能したのは足利将軍家のうちにして2〜3代くらいのもの。初代の尊氏は歴史舞台の中では躍動的だし、有力な武家としての器量も兼ね備えた人物であったろう思われるが、鎌倉幕府頼朝の実権を簒奪した(引き継いだ)北条氏に長く仕えていた源氏でもある。尊氏の時代に至って事件が起きる。京都に後醍醐天皇の出現である。歴史的奇遇である。↓続く


足利将軍2

足利高氏

(写真註:足利高氏だという肖像画をトレースしました。この時の高氏は正に源氏の棟梁、楠正成を湊川で破る。それだけの勢いというものが室町時代を作っていった。)

建武3年(1336)この年1月尊氏入京するも義貞に敗れ京を逃れて九州に至る。4月尊氏大勢を建て直し博多を発す。6月湊川(みなとがわ)の戦いに楠正成(くすのきまさしげ)を破る。例によって外史子日本外史足利氏上によれば、

『楠氏(なんし・楠正成)の兵を兵庫に挟撃(きょうげき)して、これを鏖(みなごろし)にして、軍を合わせて義貞(よしさだ・新田義貞)を撃つ。義貞走り帰りまた乗輿(じょうよ)を奉じて叡山に拠る。法皇・廃帝・廃帝の弟豊仁(とよひと)親王皆疾(やまい)に託して従わず。往いて尊氏による。尊氏東寺に拠って城となし六月軍を遣わし仰いで叡山を責めしむ・・・』

外史では鏖(みなごろし)にするとある。義貞と叡山に脱出したのは後醍醐(ごだいご)天皇、一方尊氏に拠ったのは法皇とは後伏見法皇、廃帝とは北朝光厳(こうげん)天皇、廃帝の弟豊仁(とよひと)親王とは後の光明(こうみょう)天皇のこと。↓解説は続く


楠正成と非理法権天

楠正成

(写真註:後醍醐天皇の命を受けて西へ赴く楠正成。足利尊氏軍との官軍対官軍の戦いだった。)

京都には楠氏(なんし)の史跡はない。悲惨な一族である。それゆえに歴史に残ったと言うべきかもしれない。そういう無常感を持つのも敗者の歴史ゆえである。日本人の心の中で生きる楠正成(くすのきまさしげ)の旗印は「非理法権天(ひりほうけんてん)」である。道理の通らぬことは道理に負ける。道理も法に負ける。権威は道理を従え、法を体現するものであるが、全ては天の意思を超えることが出来ない。″最後まで後醍醐天皇の命により王の権威を守りそのために戦った楠一族であるが、後醍醐天皇の命により足利氏の大軍勢に抗って「建武の親政」も楠正成も滅ぶことになった。↓続く


非理法権天

その楠正成の立場を表すにはこの「非理法権天」という言葉はいかにもという感じだ。言葉自体は江戸期の思想用語であり、楠正成が用いたという史実は無い?とも。しかし、この旗印が負けたということは世の中はこの逆だということ意味になる。勝者足利政権は天に逆らい、その権は法や理を従えたものではないということを強烈にアピールすることになる。歴史的に言えば王道か覇道かということにもなる。力さえあれば天下を我が物にしていいというわけではない、と言う訳である。日本史は何度もこの二つの言葉で揺れる。覇を倒すものは王だともいえるしその逆ともいえる。鎌倉の北条氏覇権を打ち破った稀代の軍略家(ぐんりゃくか)楠正成を失い、世は後醍醐帝のエネルギッシュな王権と武士の利権を守るための足利氏の覇権とが幾重にも絡まりあった南北朝の時代に入る訳である。何のために戦ったのかと現代人なら思うことだろう。勝者は歴史をつくる。敗者には歴史がない。京都には楠氏の遺跡は残らなかった。京都編indexに戻る


室町時代と南北朝時代が一緒に始まる

足利尊氏邸跡

(写真註:足利尊氏の邸跡といわれろところ。二条から御池、高倉から柳番場各とおりにに囲まれたところあたりと想定される。邸のどの位置に当たるかは分らないが高倉通り御池上がったところのビルに碑がたっている。そのような説明はあるが地図が消えていた。)

4月に後醍醐帝は延暦寺に、6月尊氏、光厳院(こうげん)や豊仁(とよひと)親王を奉じて東寺に陣する。8月には豊仁親王践祚(せんそ)して光明(こうみょう)天皇に、11月尊氏征夷大将軍に任ぜられた。それは流れとはいえ、(鎌倉に向かわず)二条高倉から御池のあたりに広大な邸を構え、京都の住人に居座った。揶揄的に言えば、京都に最後に残ったのが尊氏軍団だったわけである。足利(この時はまだ室町通ではない)幕府の始まりだった。12月後醍醐帝は比叡山から吉野へ、ここに足利時代と南北朝時代が同時に始まるというわけである。戦うけど統一ではなく分離・割拠の方向へ全てが動いていく時代が始まる。寝返りまた寝返り、またまた寝返る。陸・海から京都に攻め上る武将としてみた尊氏は秀吉の中国大返し以上のスケールを感じるが、義貞も同じ源氏の嫡流。後醍醐帝を執拗に攻めるが、尊氏の武将としての統制が効いたのはこの時だけである。武力を持った欲の塊の一団が京都に入った年だと見た方が歴史を理解しやすい。↓続く


室町幕府

尊氏や弟直義に限らず、足利家執事であった高一族、上杉や畠山の大名、南北朝の対立に乗じてあちらへ付きこちらへ付き、私利私欲で相手を殺すまで謀略を止めなかったのがこの時代である。敵も自分と同じように私利私欲の人だと思うところから来ている。私利私欲で得た地位を守るためには永遠に私利私欲の人と闘わなければならない道理である。楠氏(楠正行・まさつら)も滅んで、南北朝合一されたらなおさらに、山名や大内の大大名、関東も京都にならって足利一族や結城・小山・宇都宮・上杉・佐竹・今川等の名門と言われる各氏も自らの欲を敵の欲から守るために滅ぼしあうわけである。室町時代は身分あるものは上も下も無道・不信・不義・非情の時代だったと言える。為政者などと言える状態ではない。室町幕府が花の御所などと言われていた時代の話です。まさに都ゆえの災難です。それでも済まずに始まったのが応仁の乱です。↓続く


応仁の乱

御霊神社

(写真註:文正2年(1467)1月この御霊神社境内で最初の合戦がおこる。畠山家の家督争いの合戦で一日で終了した。山名宗全の細川勢力排斥クーデターだも言われる。これが応仁の大乱の勃発となる。3月には応仁元年となる。これ以降将軍家も巻き込んで一族が敵味方に分かれた全面戦争が10年以上続くことになった。)

京都の町の歴史を述べる時に外すことのできないのが「応仁の乱」である。南北朝合一(明徳3年・1392)から約70年を経た応仁元年(1467)に勃発(ぼっぱつ)して約10年続く。室町時代は長い日本の歴史の中で現代に匹敵する無道徳時代だとある作家が書いている。京都を舞台に将軍家や管領家に家督相続の争いの戦乱が起こる。それがまた全国に拡大していく。近畿・中国各地で内戦状態となる。しかも謀略戦争だから、結局京都の町、特に上京と言われる朝廷や公家や幕府の武家たちの住区は焼け野原となった。寺社や公家は郊外に避難し、守護の職にあるものも幕府の支配から離れて、割拠していくことになる。↓続く


応仁の乱2

乱の後も将軍家は幕政を建てなおすこともなく、都市の復旧もしなかった。町衆任せにすることで実は室町時代の文化が逆に花開くことになる。京都が都市として沈まなかったのはそのことに尽きる。ただ為政者として無節操でもある、応仁記という書物には、「天下は破れよ、国は滅びよ、人はともあれ、我のみ栄えん・・」とこの時代の覇権者の姿を書いている。家督争い、無道徳とはこのことである。↓続く


応仁の乱と義政(よしまさ)

応仁の乱は6代将軍義教(よしのり)の3男、早逝した7代将軍義勝(よしかつ・在位委わずか8カ月、9歳で没)の同母弟・8代将軍義政(よしまさ/1436-1490/1449-1473在位)に始まる。義政の政治嫌いと私生活の乱れにある。また、側近政治の腐敗によるものとされる。外史氏の表現よれば政治に倦(う)んで″とある。義政の正妻が日野富子(ひのとみこ)である。義政の異母弟が浄土寺にいた義視(よしみ/1439-1491)、義政の望むところで「自分に子が出来たら僧にすると」と言って還俗させられた。外史氏の表現である。次の将軍になる予定であった。そのために義政が後見人に細川勝元(ほそかわかつもと※東軍大将)を頼んだ。そのあと後に生まれた義政の実子が義尚(よしひさ/1465-1489/1473-1489在位)、実子を僧にするに忍びなく将軍にするために日野富子が義尚の後見人に頼んだのが山名宗全(やまなそうぜん※西軍大将)。 ↓続く


現実逃避の東山文化

応仁の乱後、結局9代将軍は義尚(8才)に譲る。例によって外史氏の言葉を借りる。

義政は奢侈(しゃし)を好み・・・天下凋幣(ちょうへい)する。(中略)応仁元年よりここに至るまで、全て十有一歳(じゅうゆういっさい。11年の意)両陣の兵士、交々(こもごも)出でて焚掠(ふんりゃく・略奪の意)し、文武の邸宅、蕩(とう・何も残さずの意)として荒野となる。・・而して義政は宴詠自若(えんえいじじゃく)たり。」

宴詠自若とはどういうことを言うのか分からないが、乱の後、義政は一人朝鮮貿易で珍品を惜しげなく買い、その後祖父義満の真似をして東山に壮大な邸宅を起こす。諸侯は幕府体制から離れていった。そんなことも何も意に介さずという意味だろう。

↓続く


現実逃避の東山文化

応仁の乱後、結局9代将軍は義尚(8才)に譲る。例によって外史氏の言葉を借りる。

義政は奢侈(しゃし)を好み・・・天下凋幣(ちょうへい)する。(中略)応仁元年よりここに至るまで、全て十有一歳(じゅうゆういっさい。11年の意)両陣の兵士、交々(こもごも)出でて焚掠(ふんりゃく・略奪の意)し、文武の邸宅、蕩(とう・何も残さずの意)として荒野となる。・・而して義政は宴詠自若(えんえいじじゃく)たり。」

宴詠自若(えんえいじじゃくたり)とはどういうことを言うのか分からないが、乱の後、義政は一人朝鮮貿易で珍品を惜しげなく買い、その後祖父義満の真似をして東山に壮大な邸宅を起こす。諸侯は幕府体制から離れていった。そんなことも何も意に介さずという意味だろう。


銀閣寺

義政死後、それを東山慈照寺(銀閣寺)とする。今は金閣寺と並んで相国寺の塔頭の一つである。京都の世界遺産群の一つでもある。銀閣寺の説明には「義政は東山文化の真髄(しんずい)たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げましたとある。美の求道者といえる義政の精神のドラマを500年後の今に伝えているとある。」政治に倦んだ幕府将軍と大乱の中で山荘作りに美意識を求める幕府将軍のというギャップの中に東山文化とか禅宗文化というものがあるのだろうか。それとも文化とか宗教とかは政治とか庶人の生活(難儀)と無関係にあるものだろうか。「天下は破れよ、国は滅びよ、人はともあれ、我のみ栄えん・・」という、将軍のデカダンスかもしれないと解説された方が当たっているような気がする。↓続く


流浪の将軍足利義稙(よしたね)

あれほどの大乱でありながら将軍家の跡目問題が解決したわけではない。京都だけでなく全国に飛び火し、結局は足利将軍家と室町幕府体制が崩壊し、一揆は強力軍閥化し、領主は守護大名から実力戦国大名になっていくことになる。9代将軍義尚(よしひさ)は24歳の時(1489)、幕府勢力回復のため管領細川政元を従え近江の守護六角氏の征伐(長享・延徳の乱)に赴くが陣中で病死。次の年に義政も亡くなった。そのあとに上洛したのが、応仁の乱の後、美濃の土岐氏に匿われていた義政の弟、義視(よしみ)とその子義稙(よしたね/1466-1523)。延徳2年(1490)、義稙(その頃は義材(よしき)と名乗っていた。24才)10代将軍になる。が、管領畠山政長と河内出陣中、管領細川政元の叛乱(京都占領)により、将軍職をはく奪され都落ち、地方諸国を流浪する。13年後に周防の大内氏の力で将軍に復帰するが、この時以来足利将軍の流浪が始まる。特に義稙はほぼ二度も将軍職についた一方、幼少からほぼ一生を流れ将軍として暮らした。↓続く


跡目争い

応仁の乱の原因はすべからず、相続問題である。管領家斯波(しば)氏も畠山(はたけやま)も細川氏も相続問題だった。幕府が弱体化し、家を継ぐのは実力主義になった。日野家に生まれた姫が、大権力者3代将軍足利義満の孫義政と結婚した。そのことは不幸なことではなかった。夫が将軍職にあり、二人の間に子が出来たこと。全ては子であり子が全てである。そこは庶人の気持ちと何も変わりがないが、この女(ひと)、将軍を凌ぐ才略があったことのが、不幸である。庶人にとっての不幸なのである。この場合の才略・実力は謀略でもあった。応仁の乱のとき山名宗全は南朝後亀山上皇の流れをくむの小倉宮(おぐらのみや)家の皇子を担いでいたのである。これを西陣の南帝と言ったりする。南朝の怨念はこの時代までずっと残っていた。70年も前に和解した筈の南北朝の闘いも続いていたようだ。日本国中の権力者が跡目争いだったのである。↓続く


下剋上(げこくじょう)

室町時代というのはもともと朝廷も公家も政権の実体を完全に失っている。しかも幕府は武家の統率も出来ない状態に陥る。下剋上(げこくじょう)という。各国で力のあるものが国を簒奪していく時代に入る。戦国時代と言うのは特異な時代である。各地各国に覇権者が出現し領土の支配をしながら天下を争う。しかし、天下という概念はまだなかったと思う。天下ということは公ということである。天下という概念を持たなかった時代である。京都を支配したのは室町将軍でもなくその宿老管領でもなく、阿波の三好であったりその三好の家来の松永弾正だったりした。松永弾正に至っては、大和を略奪支配しながら京都に対してはほとんど盗賊まがいの大名である。我のみ栄えん・・を地で行く下剋上の星である。京都編indexに戻る


改めて京都の難儀

武家政権は平家に始まる。平家は京都貴族になろうとばかり。源氏の政権は関東に、鎌倉に行ってくれた。北条政権も鎌倉を引き継いだ。ところが足利政権は京都に居座った。難儀だというのは正にそのことである。京都人(現在ではない)はよそ者が嫌いだ。ただ、嫌いだけれど都である限りは実力者が京都を襲うことは仕方がないことだと思っている。もっと言うといずれ滅ぶか、どこかへ行ってくれるとものだと辛抱していたが、足利政権は鎌倉に行かなかった。公家になったわけでもないのに幕府の政庁を京都においてしまった。建武の親政と言う前政権を吉野に追いやってである。↓続く


京都人はよそ者が嫌いである

改めて言うと京都の人はよそ者が嫌いである。将軍であろうと八百屋であろうとよそさん″である。しかし、一方で都である京都の町はよそ者をこころよく(?)受け入れることのできる町でもある。それがただの田舎と違うところである。そうしているとやがて、よそ者(足利将軍家他)はいつか京都人を代表する京都人になり、京都は京都人である武家が支配する町になる。歴史の結果を知ることのできる我々にとってはその後のことが分かる。色々なことを知ることが出来るその中で、実は武家が京都の町を支配したのはこの時だけである。南北朝の時代は吉野政権に対して京都が武家の都であった訳である。鎌倉時代の鎌倉であった。それが町にとっては難儀だったと言ってる訳である。↓続く


京都の文化

京都の文化の源は室町時代にある。鎌倉文化は武家政権として我が国の国体をひっくり返した。その一方で京都は無力な都としての僻(ひが)んだ文化に終始していたが、室町幕府によってその武家文化が京都で花開くことになった。尊氏は最後までご醍醐天皇を恐れた。南朝が吉野に存在する限り京都を離れられなかった。とも言える。しかし、時が進んで、政権が安定するに至って、足利氏の貴族化が進んだ。その結果が応仁の乱であり、その後の貴族文化である。その時、確実に足利氏の斜陽が始まったわけである。室町政権はやがて健全な政権でなくなっていく。政権とともに武家文化が腐敗したのである。↓続く


自由都市と室町文化

その武家文化が今の京都の町の素地を作っている。しかも、そのあとの下剋上、群雄割拠の戦国時代は、京都を武家支配から解放した。後に織田政権は京都を支配したが、本拠地とは考えなかった。豊臣政権は京都支配を引き継いだが国内統一の政権基盤は海を持つ大坂に置いた。徳川政権は最初から京都の町を嫌って武家支配を明確に打ち出すために京都を無視した。それが400年前のことである。それをまたもう一度100年以上遡れば世界で有数の自由都市である京都を見ることが出来る。室町政権の極めて欲望的なふしだらな体制が自由経済都市京都を作ったと感ずるべきである。自由都市堺の発展さえも京都のふしだらな欲望があって成立している訳である。それからの京都の信仰・芸能・商業・工業など織豊時代を超えて続いていくことになる。京都人の意識も京都の町も原型はこの時にあるという。京都ブランドと言うものがあれば、それはこの混沌とした且つ躍動的な室町時代の文化のをルーツに持つことが多い。この項、室町芸能史の研究者宮川講師の話を参考にしてます。京都編indexに戻る


戦国時代

金閣寺も銀閣寺も京都観光の目玉である。市バス路線はどちらを目指す。東へ行けば銀閣寺で、西へ行けば金閣寺である。どちらもシーズンには乗れないほどである。禅宗文化だと知って尋ねる人は少ない。京都の禅宗文化は領地という土地私有で成り立っていたのである。足利氏の文化は全て腐敗臭がする。ワビ・サビというのも光加減でそう見えたりすると思えばいい。政治も宗教も腐敗する。その間に現実的な新興教団が町と文化を支配することになる。武装した自治が進み町人文化がはびこり栄えることとなる。それが京都文化の土壌になっていくのである。が、京都は台風の目であった。一方でもう一度実力による土地略奪、土地所有の下剋上が起こっていたのである。それを歴史は戦国時代という。京都編indexに戻る


天文(てんぶん)年間

路地子はこの天文年間(1532〜1555)という30数年の時期に興味がある。天文年間を知るとそのあとに続く織田・豊臣の時代の躍動感の源を知ることが出来る。しかも、戦国時代と言われる中で庶民の生き生きとした存在を感じられる。天文は弘治(こうじ・1555〜)、永禄(えいろく・1558〜)、元亀(げんき・1570〜)、天正(てんしょう・安土桃山時代と言われる。ユリウス暦1573〜グレゴリオ暦1592)と続いていく。織田信長が尾張に誕生したのが天文3年(1534)である。それから、室町幕府が滅ぶまで約40年、一気に時代が変わりだした時である。幕末の始まりである天文年間というテーマを借りて、少し巷談を続けることとする。↓続く


山科本願寺合戦

(天文元年1532)浄土真宗教団は8世の蓮如に始まる。蓮如の曾孫が10世証如。天文元年、室町幕府の細川晴元率いる京都の法華衆徒(法華一揆)が証如と一向一揆衆の立てこもる山科本願寺を攻める。山科本願寺が落城。これが山科本願寺合戦。山科を追われた証如は大坂・石山御坊に移る。後室町幕府(細川晴元)とも和睦。以後石山本願寺を本拠に戦国時代に背景に本願寺教団(一向一揆)の体制を強化に努める。石山本願寺の成立。天文12年顕如(本願寺11代・光佐)生まれる。天文23年証如が亡くなり跡を継ぐ。↓続く


天文(てんぶん)年間は幕末の始まり

(天文3年・1534)尾張織田家に信長生まれる。細川藤孝生まれる。5年13代将軍足利義輝生まれる。尾張に秀吉生まれる。この年京都の法華信徒、延暦寺衆徒らに敗れる。法華信徒及び法華宗京都での勢力を失う。(天文法華の乱と言う)。7年15代足利義昭生まれる。11年三河松平家に家康生まれる。10年武田晴信(信玄)が父を追放、当主になる。信濃の侵略を始める。11年奥州伊達家に天文の乱。12年ポルトガル船が種子島に漂着。鉄砲が日本に伝来。17年越後では長尾景虎(上杉謙信)家督を継ぐ。春日山城に入城。18年三好長慶が主の細川晴元を京都から追う。三好の臣松永久秀が京都所司代役に付く。18年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。19年三河松平家家康が北条家の人質に。20年周防の大内家滅ぶ。24年毛利氏が安芸を奪う。登場人物が勢ぞろいし、かつ戦国時代最後の布陣が整うことになる。


天文法華の乱

法華とは法華経のことである。天台宗ではこの法華経を最大の聖典とする。天台宗は天台法華宗と言われたこともあるが、上層階級にとっては教養の源であった。鎌倉時代に入って日蓮が出現するにあたってこの法華経のみを唯一の聖典として布教した。これによって庶民層にもこの教義が広がっていった。日蓮宗は教義をめぐって多くの宗派に分かれていた。これを法華宗と言う。京都の町は天文年間に至ってはこの法華宗徒(法華一揆)らが中心になって町の自治権を握っていた。一揆と言うのは軍閥である。天台宗の叡山僧(これも叡山軍閥であり)は、法華宗の攻撃を強める。


細川晴元

法華一揆の実力を恐れていた細川晴元は、叡山衆徒、三井寺、興福寺ら、一向宗などと図って京都を攻める。近江の六角氏とともに京都を包囲し、法華宗二十一本山を焼き、法華一揆は壊滅させた。法華京都での勢力を失った。この時下京の町もほぼ焼けた。大災難であった。法華宗は数年後まで京都へ入ることを許されなかった。これに代わって京都の町を支配したのが細川晴元(将軍は12代足利義晴)や、これを天文法華の乱と言う。↓続く


室町幕府の最期

戦国期が最後になって(もちろん結果を知っている我々が見て)、室町幕府足利家の13代将軍になったのが義輝。既に将軍家は京を追われ、11歳で将軍になるも近江の坂本や朽木をさまよいながらの将軍であった。が武術とともに器量があり、一時都での将軍家の威信を回復するように見えた。足利将軍家の館は二条城と呼ばれた。義輝の二条城は管領(かんれい)斯波(しば)氏の館跡に設けられた。が、松永弾正の襲撃によって落ちた。義輝、剣客の気概で奮戦するも炎の中で落命。武人ではあったが将軍の威信の回復にはほど遠く、室町幕府の息の根はこの時に絶えたとするべきである。永禄8年(1565)のことである。永禄の変という。応仁の乱勃発から100年の後のことである。この100年間まだ足利家もよく続いたとも言えるが、実体のない室町幕府であった。この時、京都の主(あるじは)は松永弾正であった。京都編indexに戻る


松永弾正

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三条通

三条通は東、山科の三条街道から西、嵐山まで。市内は旧三条大路。三条街道と言うのは旧東海道のこと蹴上から京都の街に入る道。鴨川を渡ると明治時代に京都のメインストリートでもあった通りとなり明治の建築遺跡も多い。市内中心部の狭い道は商店街でつながる。今も面持ちのある通りである。


三条大橋

この通りの要が三条大橋。明治45年三条通開通の時には橋脚はコンクリート造りとした。そのときは101メートルの長さだった。三条大橋は江戸時代から東海道の上り、起点でもあった。今は一般市道三条通にかかる京都市建設局管理の橋梁。橋梁形式は鋼単純H型橋というらしい。全長74メートルの橋であり、昭和25年(1950)に完成した。↓続く


京都三条の橋は後代まで往来する人の助けとなる

橋の高欄、元の橋の青銅製の擬宝珠(ぎぼし)に銘が刻まれているのを見のがさないで欲しい。元の橋は秀吉の時代に増田長盛(ますだながもり)が奉行し造営した。基礎は地中に約9メートルの深さまで入り63本ある。と書いてある。いわゆる石柱の上に乗った木造の橋である。その銘文の最初はこんな文で始まる。京都三条の橋は後代まで往来する人の助けとなる″と為政者(秀吉政権)の目的が書かれている。行政というものの姿が見えてきている。それからも幕府(江戸政権)によって石柱の上に何度も架け替え修復された。江戸という新都と旧都を結ぶ街道でもあった。財力の無い公家政権ではどうしようもなかった大きな土木がこの時代には動き出した。武家政権も英雄談だけでないものを持っている。↓続く


昭和の擬宝珠(ぎぼし)

今の三条大橋
今の三条大橋

この三条大橋、新しいところでは昭和10年6月の鴨川洪水で橋の一部が流出した。市内でも死傷者数十人の被害があった。先の項目で説明した擬宝珠も一つ流失したらしい。昭和25年に現在のコンクリート橋に架け替えられたときに、天正年間の擬宝珠を使ったが一つだけ新しい物が混じった。そこにはこう書かれている。「・・・この水害に鑑み鴨川を改修し、河床を深くしたので、天正以来の敷石、礎石は取除かれた。・・橋を鴨川と疏水の二部に分け、橋長は(省略)、この擬宝珠も新たに追補した。昭和25年1月京都市長神戸正雄」と鴨川治水の印である。この項一部京都市のホームページを参考引用しました。京都編indexに戻る


粟田口

粟田口(あわたぐち)と言うのは、秀吉の京の七口の一つ、三条口とも。東海道や中山道へ繋がる街道の口である。秀吉の時代には三条大橋の西側、今の河原町三条の交差点に近いと言われている。その後は東海道の上りとして都への入り口としての役割を果たす。蹴上(けあげ)から西へ三条大橋の方へ進むと粟田(あわた)神社がある。通りから南へ参道がある。しばらく住宅の中を進むと旧東海道に出る。粟田神社の参道に少し西へずれて並行してあるのが、京都一周トレイルの東山コースである。このまま登っていくと将軍塚に至る筈。↓続く


尊勝院(そんしょういん)

尊勝院

(写真註:尊勝院の本堂、元三大師堂とも。ここから京都の北山方面が望まれる。真下が粟田神社だけど、行けない。隣が青蓮院だけどこれも行けない。実はこのお寺、隣接する青蓮院に属す。住職は青蓮院門跡。)

至る筈と言うのは路地子ではここから将軍塚までは無理である。トレイルと言うのは山のジョギングみたいなものらしいから路地子にはきついわけ。しかしながら、ただ、その途中にあるのが尊勝院であり、そこまで登る。そんなに距離のある話ではないが下ってくるのも足がもつれる。60才以上の観光にはお勧めしません。別に、青面金剛(しょうめんこんごう)を祀る。路地子は京都の三庚申(さんこうしん)の一つと言うことで時に見学お参りさせていただくわけである。地図では上手く見つけられない。観光から外れてしまうとこれほどのものかと思う。その静すぎる尊勝院であるが、元三大師(がんざんだいし)のお堂である。↓続く


元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)

元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)

(註:元三大師と言うのは慈恵大師(じえだいし)とも言われる。18代の天台座主。天台宗中興の祖とも言われる。)

ここは元三大師をお祀りしているお堂でもある。応仁の乱の後秀吉によって再建されたとある。徳川期は住職が多賀大社の別当を務めるなど。青蓮院門跡の有力な塔頭であった。が、ここで述べたいのは平安時代の良源のことである。親鸞の師は法然である。法然が師と仰いだのは源信。恵心僧都(えしんそうず)、親鸞は「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」で七高僧の一人にして我が国における高僧として源信大師(恵心僧都)を上げている。そのその源信の師が良源であった。↓続く


角大師(つのだいし)

角大師

(写真註:角大師は良源の厄病除けの姿だという。)

平安期も院政時代になると比叡山は多くの僧兵を擁し強大な勢力を誇るようになった。比叡山伽藍の復興の他に、良源(985没)や源信(1017没)は天台本覚思想と言う教義を体系化していく。比叡山天台宗の中興の祖と言われるわけである。これは平たく言うと信仰中心主義であった。その後200年やがて、法然(1212没)や親鸞(1263没)、道元(1253没)、日蓮(1282没)などの僧はこの思想を超えて鎌倉時代の新しい教義を開いていくその根元にあるのが、良源である。良源は観音の化身とも言われたりする。角大師(つのだいし)はこの良源の姿。厄除けの護符である。近江の坂本や京都市中の民家に見られる。この項、その護符の謂れの一端である。京都編indexに戻る


粟田口解剖場

明治の始め三条通りの東、粟田口村の天台宗の寺院「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」に「京都療病院(りょうびょういん)」が開設された。なんと明治の4年のことである。元処刑場のあったのが三条河原である。そんなことからか医学研究に解剖場も併設。解剖場というのは現代用語で言えば京都府医務院という感じだと思う。病院・医学校ともに明治12年に上京区へ移転。これが今の京都府立医科大学となる。↓続く


僧侶が作る病院

この療病院の設立は実は当時京都の実力寺院(観光ではなく)の僧侶たちの社会運動だった。明治の初頭の廃仏毀釈運動の風潮に危機感を感じた岡崎願成寺・永観堂・銀閣寺・金閣寺の住職たちが明石博高(あかしひろあきら)などと語らって、僧侶たちが発起人となり京都府に出願したもの。仏教界の他、一般府民や医師、薬種商なども出資、花街(かがい)の冥加金(みょうがきん)まで多くの資金が集まったという。京都における近代医療の始りであり、首都でない都市としては早かった。以後京都は近代医学の先進都市となった。が、そのことは余り知られていない。療病院というのも聖徳太子の創設したものに習ったということ。聖徳太子は日本仏教の最大の祖である。維新政府の意味のない施策であった廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた頃の話である。これも歴史。京都編indexに戻る


京都府立医科大学

京都府立医科大学

(写真註:梶井町にある京都府立医科大学。)

京都府立医科大学と附属病院は上京区の河原町通広小路上ルにある。京都療病院の移転先であるこの地は今は梶井町と言う。明治4年までここに天台宗の三大門跡寺院の「梶井門跡」があった。由緒ある寺院で江戸期は御所に近いこの地に置かれていた。明治維新の際、当時の法親王が還俗して梨本宮家を興すことになったため、仏像・仏具類を大原にあった天台宗の政所に移された。梶井門跡は洛北の大原に移転。大原の極楽院と一緒になった。これがこの時から「三千院門跡」となる。明治13年(1880)この梶井門跡の跡地に移ってきたのが京都療病院である。青蓮院門跡から梶井門跡の跡地への移転だった。→*三千院門跡京都編indexに戻る


明石博高(あかしひろあきら)

明石博高は京都の医薬商の家に生まれる。慶応元年には「京都医療研究室」を組織し、化学・薬学を研究する。温泉の水質分析なども実施。大阪舎密(せいみ)局などで学んだ後、京都府顧問山本覚馬の勧めで京都府に出仕。舎密局の設置などにも貢献。青蓮院に療病院を、南禅寺に癲狂院の設置など、医療・公衆衛生・医学教育などに先進性をもって多大な貢献を果たす。明治14年京都の先進化を積極的に進めた植村知事の退任により退いて、その後も医業に専心・・・・→*京都府立医科大学京都編indexに戻る


京都舎密局(せいみきょく)

せいみと読む。舎密とはケミカルのオランダ語セミの当て字。化学のこと。舎密局とは化学という科学を司る役所。研究機関でもあり教育機関でもある。明治の2年には大阪に、明治の3年には京都にも。大阪舎密局は後に国の大学(文部省)に移管され京都の第三高等学校(京大)の前身ともなる。京都舎密局は10年の後廃止されたが、その流れから島津源蔵などが出てくる。京都編indexに戻る


音羽の滝ビール

明石博高は元々温泉などの水質分析に長けていた。清水寺の音羽の滝の水。これはもちろん湧水で霊水、今も京都の名水の一つである。この水を使ってビール作りを始めたという。今でこそ地ビールなどと言ってそれなりに好まれるが、当時ビールの製造事業は日本人がまだビールというものに馴染んでいないこともあって失敗。明治の初めの頃の話である。京都のビールの歴史は失敗から。


三条通商店街と御供社(ごくうしゃ)

三条通は都の中の大路であったが、江戸期は都が荒廃していた。明治になって東西のメインストリートになっていくが、市電が通る道でなかったため道幅が狭いままである。この三条通に堀川通から千本通(二条駅前)まで約800メートル、アーケードのある商店街が続く。この商店街お中ほどにあるのが御供社。この三条通は神泉苑の南の端三条大路。宇多天皇の年間(896)都に疫病が流行った。神泉苑の南の端に66本の鉾を立て、祇園社(八坂神社)から3基の神輿を迎えて厄病退散を祈願したという。これを御霊会(ごりょうえ)と言う。その地が御供社。1000年以上前のことながら祇園祭のルーツである。明治39年に八坂神社の末社、八坂神社御供社になって、ずっと祭りの重要な役割を担っている。この商店街も京都という都市の暮らしの様子をよく表している。暮らしてみるのが出来なければ、歩いてみるのもいい。JR二条駅もしくは阪急大宮駅から歩ける。→*京都三条会商店街京都編indexに戻る


中学歴史の年表にお付き合い願いたい。天正年間

天正年間(1573-1592)20年間。この時代は安土桃山時代と重なる、これからの文禄、慶長のこの三時代は平安京”最後の時代になる。天正の始まりは織田信長が将軍足利義昭らを京都から追放、京都での織田政権が始まる。この年、朝倉義景、浅井長政落城自害、五年、信長右大臣になる。7年、安土城天主が完成。8年、石山本願寺が焼失。9年、羽柴秀吉が鳥取城を包囲。


天正年間

10年、信長武田家を滅ぼす、本能寺の変で織田信長自刃。山崎の戦いに秀吉勝利、清須会議。11年、賤ヶ嶽の戦いで柴田勝家自刃。12年、小牧長久手の戦い徳川家康と和睦。13年、秀吉関白となる、天正の大地震″。15年、薩摩島津氏が秀吉に降伏。秀吉の聚楽第が完成。16年、秀吉の刀狩令。18年、小田原北条氏が秀吉に降伏。19年、千利休が自害、秀次が関白になる。20年、小西行長ら朝鮮半島平壌を占領。天正10年に本能寺の変が起こって、後の10年で秀吉が関白にまでなると覚えるのが復習歴史。


文禄年間

文禄年間(1592-1596)5年間。全国を平定した豊臣政権による改元。後陽成天皇即位。2年、豊臣秀頼生まれる。3年、伏見城完成、秀吉入城。全国的に検地を実施。4年、秀次自害。秀吉聚楽第を破壊。5年、慶長伏見地震″、伏見城・方広寺ら倒壊。秀頼が生まれ、秀次が殺された年間、方広寺の大仏殿も豊臣家を見限りだした5年と覚えておこう。


慶長年間

慶長年間(1596-1615)。20年続く。3年、秀吉死去。4年、家康大阪城西の丸に。5年、関ヶ原の戦い。8年、家康征夷大将軍に、秀頼内大臣に、徳川千姫と結婚。10年、秀忠が二代将軍に。11年、江戸城本丸完成。16年、後水尾天皇の即位。19年、大坂冬の陣。20年、大坂夏の陣、豊臣家滅亡。一国一城令。元和に改元。秀吉が死んで関ヶ原、しかし、それから15年秀頼は生きた。家康に天下の権が移るのにその後まだ15年かかったと覚えるようにしている。


織田信長の入京

信長
信長公

天正の前が元亀(1570-1573)。その前は永禄(1558-1570)という年号。永禄元年に秀吉すなわち木下藤吉郎が信長に仕える。その10年後永禄11年に信長が足利義昭を奉じて入京を果たす。東寺に陣を構えて洛中の治安を回復する。翌年義昭は足利15代将軍となり自ら元亀(げんき)と改元するも、3年後に京を追放されて織田信長の覇権が確立する。それが天正元年で3っほど項目をさかのぼっていただくということ。室町幕府義昭が将軍をしていたのが元亀(げんき)という年号だと覚えていただきたい。初めて入京してから3、4年で京都での覇権を確立したということになる。


旧二条城の構築

竹林公園の石仏群

(写真註:竹林公園の旧二条城関係の石造物群/京都の地下鉄工事で発掘調査で出土した石垣に用いられていたという石仏や石塔。中世の偶像崇拝を打ち破れる力を持った信長政権への恐怖があった。)

入京後、信長が将軍義昭のために築造したのが二条城。旧二条城と言ったほうがいい。徳川二条城とは別のもの。北は出水通(でみずとおり)、南は丸太町通、西は新町通、東は東洞院通(ひがしのとういん)くらいまでの範囲であろうと推定されている。今の京都府庁の東、護王神社(ごおうじんじゃ)の南、京都御苑の西南隅を掠めて、平安女学院の学校があるあたりになる。地下鉄烏丸(からすま)線の発掘調査で石垣などが見つかり二重の堀のあった城郭であったらしい。この地は元々室町幕府の花の御所の跡でもあったが、当の15代将軍と信長が戦ってこの二条城とともに室町幕府が滅ぶ。ここを旧二条城と呼んでいる。


幻となった信長の京都屋敷

その旧二条城の少し北に信長の京都屋敷が築かれた。歴史資料によれば室町幕府が存在するときの信長は二条衣棚にあった日蓮宗の本山妙覚寺や光秀の京都屋敷などを使用していた。四条西洞院にあった法華宗(同じく日蓮宗の一流)の本能寺を定宿とする布告も出していたがあまり利用されたことがない。実質的に京都を支配しているのは信長であり、寺院を宿舎とするのは不便?であることから幕府(将軍義昭)は元亀3年(1952)信長の屋敷の造営を許した。室町通と新町通の間。一条通の南北、の地で徳大寺家のあったところとされる。幕府の命により各寺院にも普請役が命じられた。竣工後は信長の政庁になる予定であったが、その屋敷は結局竣工することがなかった。


二条新造御所

足利将軍家を追放して織田政権の及ぶ範囲はこのときになってもまだ近畿・東海・北陸・中国の一部であった。本拠地はあくまで岐阜城。天正5年には右大臣、京都での信長は、この頃から旧二条家の邸宅を利用していた。歴史的には二条新造御所という。旧二条城の南、御池通まで下る。天正7年(1579)信長はこれを106代正親町(おうぎまち)天皇の皇子・誠仁(さねひと)親王に献上。自分は堀をうがった本能寺を宿舎としていた。↓続く


本能寺

京都へ歩を進め、近江に本拠地の安土城が完成して3年後、天正10年(1582)本能寺の変が起こるわけである。信長は大坂に上がりの城を築くことを思っていたためか、宿舎はその時も法華宗の本能寺であった。本能寺は現在とは別のところ、蛸薬師油小路あたりにあった。二条新造御所より南であった。嫡男信忠が二条新造御所に入って戦う。ともに明智勢に攻められ自刃。京都での織田家の覇権が一気に崩壊した。二条新造御所も焼けたが、もちろんの信忠は先に誠仁(さねひと)親王らを禁裏に避難させた。親王はその後、34歳で病没。107代後陽成(ごようぜい)天皇の父君にあたる。信長の京都での天下は本能寺とともに10年だった。↓続く


下剋上から謀反へ変わった瞬間

明智光秀

(17日)光秀は坂本城に向かった。7〜8日も城に留まって中国出陣の準備をした。(26日)坂本を発つ、亀山の居城に入る。(27から29日)愛宕山に参籠。その後連歌の会を行う。(先立つこと21日)信長嫡男信孝妙覚寺に入る。手勢200騎。(29日)信長が西洞院四条の本能寺に入る。近臣わずか数十名。(6月1日)近衛前久を主客に大茶会を催す。(1日午後10時)光秀の軍勢が亀岡城を出発。総勢1万3000が老ノ坂へ向かう。沓掛から東へ、しばらくの後桂川を渡る。(6月2日午前6時)明智光秀の軍勢が本能寺を囲む。信長(49歳)殿舎に火をかけ自刃。信孝は妙覚寺を出て二条新造御所に。(8時ごろ)二条新造御所にお住いの誠仁親王が禁裏へ移座。(9時)信孝軍陣容が整わないままに、信孝(26歳)自刃。焼ける。午前6時に始まった襲撃は9時には終わった。というのが本能寺の変である。織田軍は信孝を失ったことが大きい。歴史は下剋上から謀反へ変わった瞬間だったとも言える。↓続く


本能寺の変2

この時、光秀の軍団が本能寺に信長を攻めたことは事実だろう。歴史の怖さは訂正の利かない世界である。物語には信長の最後の言葉として残っている。最後の言葉を聞いた人は生きていないのだから・・。本能寺の周りが尋常でないのを知って、まず、最初に自分の嫡男を信忠疑った。それも然りだろう。京都で軍勢を動かせるのは自分以外には信忠しかいない。″別心(べっしん)か?″と言った。子が親を撃つことはまだあり得た。室町時代である。明智の桔梗の紋だと聞いてもってのほか″と言った。ある本は是非に及ばぬ″と言ったとある。もってのほか″は否定語である。是非に及ばぬ″は肯定語である。これでは何故起こったのかはというのは分からない。↓続く


本能寺の変3

読者は諸説を研究してください。路地子は三文小説家である。これだけでいい。両方採用する。あの馬鹿者めが、こうなってはやむを得ぬ・・″というのが是非に及ばぬだ。部下にはとやかく言うな。戦うだけだと言ったと、解釈してもいい。国語的には「今を戦うだけだ」というのが正しい。脱出できたかどうかは分からない。だが、脱出を試みなかったとすると、光秀を殺してやりたいと思ったからである。それが、もってのほか"ということである。バカバカしい室町時代が終わらせる。言い換えれば古い秩序を全て終わらせようとしている矢先である。今、殺してやりたいほどのものに殺される。自分の死後というものが想像できたかもしれない。結局、信長の死によって中世が終わることになった。下剋上の最後の人間は謀反人になった。それでなくとも、今までの歴史の中でこれほど無意味な反逆はないだろう。京都編indexに戻る


秀吉の入京

織田信長の天下の後継者として秀吉が入京を果たしたのは、本能寺の変の翌年天正11年。その時宿舎としたのは相国寺。柴田勝家を越前に滅ぼし北陸平定後のこと。参議に任じられた。京都の街の為政者になるとともに政権後継を天下に示したわけ。その翌年には徳川家康との戦いに数万の軍勢で入洛、その年従三位権大納言。翌天正13年位を極めて関白・内覧の宣旨。本能寺の後、3年足らずで朝廷と国の支配者となっていく。これが太閤記出世の謂れ。この時の秀吉の本拠地は天王山の山崎と大坂。秀吉が信長の後継者に成れたのは単に都に近い大名であるだけでなく、大坂・堺・姫路を手に入れていたことにある。京都編indexに戻る


聚楽第

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秀吉の京都改造

工事中


お土居

天下の平定を成し遂げた秀吉が京都の街の大改造とともに防塁化したのがお土居″とよばれるもの。土塁と堀で京都の街を囲ってしまった。総延長で22キロ、これで京都の街を洛中と洛外とに分けてしまった。秀吉の好きな惣構えの発想。城と武家と商工業の住民などを全てを城下にまとめるようなもの。目的については種々説はあるが、外に堀があるところを見れば都市の洪水対策とするのが妥当だと思う。


京の七口

もともと平安京も同じ思想。ただ違うのは、平安京は洛外との行き来が自由な都。だがしかしそのときすでに平安京都の形が崩れており、新しい洛中は南北に長い城塁になった。そのため短冊形の町割に整理され、平安京の条里制の復元にはならなかったこと。もう一つは都に通じる各街道の入り口を定めたこと。おおっぴらに都に出入りするにはこの口を利用しなければならなかったこと。たとえば、五条大橋を壊(こぼ)って南に橋を付け替えてこれを伏見口とした。ように相当な権力の意気込みが感じられる。そのため軍事上の目的が云々されるがあくまでも防災を考えた都市計画上の都合だと思ってる。京都編indexに戻る


京坂街道

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豊臣家の滅亡

江戸幕府が公家と武家の支配を完全なものにしたのは、秀頼の死をもってである。家康は秀頼の遺子国松の首もはねた。元和は徳川家による改元である。豊臣の家だけのことを言えば、関ヶ原で西軍が負けたと言えど、秀頼がせめてもう十年早く生まれておれば、秀長存命ならばあるいは、秀次を殺していなければもう少し永らえたかもしれないし、家康の時代は無かったかも知れない。秀吉の人気はその天性の稀有壮大さと、家族に恵まれなかったありきたりの不幸への同情もあると私は見ている。多くの家が栄え多くの家が滅ぶ姿を都はいつも見ている。


秀吉を演じた役者たち

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豊臣家という血

秀吉は百姓の出であるとしても、秀頼は違う。もちろん太閤秀吉の遺子である。秀頼には織田信長と同じ血が流れており、勇猛な浅井長政の孫である。徳川家以外の大大名にとっても恩顧の主筋にあたる。もう数年すれば関白の位にもつけなければならない青年であった。これだけのものを持っているのは、あとは将軍秀忠の子、秀頼といとこ同士にあたる三代将軍しかいない。秀忠にとっては甥であり娘婿でもあったが、武家の中で二軒の家が並び立つ筈は無く。臣従しない限り滅ぶしかない。関白秀頼が自ら采配を振る機会が来れば、徳川家は三代目にして戦わなければならなかったかもしれないのだ。どちらかが滅ばなくてはならない。そのために家康としても十五年の年月をかけてなお自分がなすべき戦いだったと見るわけである。京都編indexに戻る


錦小路通(にしきこうじとうり)

錦天満宮の社

(写真註:手水舎の裏に蛇口がある。夏は冷たい水を水筒に・・、いっとき水質検査で一般細菌が基準を超えたので煮沸して飲んでほしいと注意書きがかかっていた。)

錦小路(にしきこうじ)というのは四条より一筋北になる。平安時代には具足小路(ぐそくこうじ)と言っていたが後、錦小路に改められる。四条より一筋南が綾小路(あやのこうじ)と言っていたのでそれに因んで錦になったという。秀吉の都市計画の時に寺町に歓喜寺(かんきじ)が移され、その鎮守社として天神を祀る社が建てられた。それが錦天満宮である。歓喜寺の方は明治の神仏分離の時に東山五条に移転、天満宮だけが残った。街中の神社であるが、この境内に「錦の水」が湧いている。↓続く


錦市場(にしきいちば)

錦天満宮から西へ続くのが錦市場。 錦市場は市場ではなく商店街である。錦市場のホームページによると、錦市場は開業以来400年になるという。大阪夏の陣の年である。江戸幕府が名実もに全国を支配した年である。元和元年(1615)徳川幕府から魚問屋の称号を許される。この地下水と直接的にかかわっている。江戸期から昭和に至るまで京都の中央市場の役割を担ってきた。やはり、錦市場の特徴は魚屋である。魚や鳥を扱うにはどうしても冷たい豊富な地下水が必要だった。一つ南の阪急電車の地下工事が行われたときに一時地下水が枯れるという事件(S35、1960年頃)があった。その後より深い共同井戸を掘って、今も地下水を使った商売をしている。↓続く/→*錦市場商店街


波荒い錦市場

はも

(写真註:京都の夏はハモ。祇園祭の頃の錦市場はハモの国。京都の料理店も仕入れている。冷たい地下水で生きているようだ。)

錦市場商店街、錦天満宮から西へ続くのが錦市場。約390メートル。幅3メートルでほぼ大丸百貨店まで続く。鮮魚・肉・鳥・野菜・漬物・乾物と食材を扱う店が多い。実は、それ以上に多いのが外国人観光客。国内旅行の観光客を大事にしていたら、ここのところ外国人観光客で歩けなくなってきた。行ったこともないが上海や韓国ばりの観光屋台商店街になってしまった気がする。ようく見れば毎年少しずつ店舗が入れ替わっている。修学旅行生に優しい京都の町ではあった。修学旅行の女子があそこの焼いたイカが美味しそうだったと友達につぶやきながら歩いてた。その後ろから爆買グループが追い上げてきている。小遣いに限りある修学旅行生にとっては波が荒い商店街になってしまった。市民も波が荒いのと活気とはずいぶん違うと気付きだした。↓続く


川魚店

なまず

路地ろぐでは実は地元商店街もテーマだ。商店街の行く末を占いながら好きな商店街を取り上げていきたい。その気持ちの一つであるが川魚店の存在を目安にしている。川魚店というのはウナギ・コイ・フナ・鮎・エビ・モロコ・シジミなど。その加工品例えばウナギのかば焼きやエビ豆などの加工品を扱っている。錦商店街には専門店が3あるいは4店ある。生きたドジョウやフナもナマズも手に入る。季節によるがスッポンも売っている。店は両側で全部で130ほど、これほどの数がないと川魚を専門として扱うのは難しい。もう一つの理由は、川魚というのは京都の人には近いが外国人観光客には遠いところにあることだ。小さな川魚店が閉店したら錦市場は観光市場になっていることがはっきりする。このあたりの免税店は大丸に任せといたら・・、大丸もその気でいるようだし。↓続く


伊藤若冲(じゃくちゅう)

伊藤若冲は京都の人、江戸時代中期に錦小路で生きた人。来年(2016)には300才になる。奇想天蓋な絵師であるが、実は錦小路の青物問屋の主であった。町年寄りとして錦市場の存続で当時の京都の町奉行所などと大いに掛け合っていた記録が出てきたということだ。商人としても町役としてもあの絵のような切れ味だったという。それによって江戸期中期に現在の地に錦市場が存在していたまたは存続の危機にあったことの証になっている。若冲の描いた魚や鳥や野菜の生き生きしたイメージを商店街のホームページで味わって見てください。墓は五百羅漢とともに深草の石峰寺に。京都編indexに戻る


牛頭天王(ごずてんのう)の八坂神社/四条通

八坂神社

東大谷の隣は旧官幣大社八坂神社。歴史ある祇園祭は八坂社の祭。神仏習合の時代は牛頭天王を祭る祇園感神院といわれるお寺。大昔は比叡山が管理していたのを足利義満が独立させた。と昨日のことのように言う。ともかくそれ以後もずっと京都の産土神として信仰されていた。昔から牛頭天王はスサノオノミコトだったり、スサノオノミコトが牛頭天王だったり区別なく祀られていた。明治の神仏分離令で八坂神社となり、スサノオノミコトが祭神となった。でも、昔のように祭りは続いている。八坂神社に行って昔のお寺風や牛頭天王を探してもちょっと無理。明治から150年、神仏習合の江戸時代も廃仏毀釈の明治も遠くなったいうことか。→*八坂神社


牛頭天王

牛頭天王

牛頭天王とは神仏習合時代の神。釋迦の生まれたところを祇園精舎という。その守り神。八坂社の由来を斜めに読むと、日本では最初播磨の国(明石)に垂迹(すいじゃく)、やがて東山の感神院に移ったされる。で、祇園社の祭神。疫病を司る神(守ってくれる、が時に暴れることも)として信仰されてきた。この神を崇め鎮めるための祭りが祇園祭。人が集まり都市となれば一番恐ろしいのが疫病。怨霊は疫病だってはやらす。いったんはやりだすと死体の処理も出来ない。疫病で死ぬ人を見たときの人間は身分の貴賤に係らず恐怖から謙虚になれる。


牛頭天王2

大幅に省略すると牛頭天王は頭に牛の角を持った異形、竜宮の王の娘、頗梨采女(はりさいじょ)を妻として七男一女の八王子をもうけた。日本の仏教では薬師如来の垂迹(化神)とされ信仰されたのが祇園信仰である。都の悪疫と水難鎮護の神でもあり、全国祇園社あるいは天王社でも祭られる。天王というのもほとんどが牛頭天王のこと。


天王信仰の祇園社

八坂社旧記収録という書物によれば、斉明天皇の2年(656)高句麗の使い来朝した時、新羅の牛頭山の須佐之雄尊(スサノオノミコト)を祀ったと伝えられる。八坂造(やさかみやっこ)の八坂郷の場所とされ、考えられるに朝鮮半島から来た人が牛頭天王を祭ったが、平安京が築かれた都の鎮護のために産土神としてスサノオノミコトと習合したということになるのかも。永保元年(1081)白河天皇が定めた二十二社の一つ祇園社となって、神仏習合のまま有力寺院として地位を確立する。御霊会から続く御霊信仰と天王信仰の混沌とした社が祇園社であった。


神仏習合

廃仏毀釈″という言葉知ってますか。言葉だけは知っているということが多い。その前に神仏習合“についての勉強も必要かもしれない。特に京都を知るためにはこの項目避けて通ることが出来ない。薀蓄と言っても路地小生の理解の範囲でのことなのでお許しあれ。神仏習合"とは、わが国の土着の神(自然の山だとか、渡来人の神だとかも含んで)という観念に、伝わってきた仏教思想が緊密に結合(混淆・こんこう)した状態。奈良時代の昔から国家の神を祭るのに神宮寺などを建て僧侶の力を借りてきた。やがて八幡神や熊野神など、明神″や権現″信仰が盛んになるにつけ朝廷も武士も庶民も混淆化を受け入れてきた。神の前でも般若心経を唱えるのが自然だった。怨霊やケガレ(厄病)に畏怖する日本人の精神構造にもマッチした信仰形態だった。と言える。もちろん純な神道体系を唱える理念や学問も一方でずっと続いていた。↓続く


廃仏毀釈

問題は出来上がったばかりの明治新政府太政官が神道と仏教とを厳然と区別した上で神道を国教とする″とする政策を打ち出したこと。慶応4年突然の布告「神仏分離令」が出された。王政復古・祭政一致という維新で神道学者の理念の花が咲いたわけである。古い律令制の神祇官が改めて置かれたりした。神仏習合の状態を禁止することだけが目的だったとは言っても、全国的に仏教形態の打ち毀し運動になったのが廃仏毀釈の動き。↓続く


廃仏毀釈2

新政府とは言うが、正月に幕府勢力を京都から追い払ったすぐ後のこと。神仏分離令は旧暦慶応4年3月13日。江戸開城の1ヶ月前。戊辰戦争は続いていた。会津若松城が落城する半年も前のこと。その後この年9月明治に改元。明治天皇の東征、京都を出発した明治天皇は江戸城を皇居として、名称も東京と改められた。復古神道と呼ばれる平田神学(平田篤胤の理論)は「尊皇攘夷」の理念的エネルギーであったと言うことと、この年の明治政府はまだほとんど体をなしていないし、主力の新政府軍は東征の最中であった。ことは知っておく必要がある。↓続く


廃仏毀釈の嵐

この布告、寺の領地などは全て政府に取り上げられ、結局、全ての寺社が国家神道の神を祭る神社か、純然たる寺に変わって残るか、さもなくば廃寺かを迫られた。僧侶にも影響が及び還俗して神に仕えたり、追放されて職を失ったりした。神官や学者は民衆を煽り、建物は毀し仏像は打ち捨て状態になった。奈良の興福寺の僧はこぞって春日大社神官になろうとし、五重の塔すら討ち捨てられ薪に売り出された。この時、神を守る寺だけに限らず全国何千の寺が廃寺になった。神社として残ったものもご祭神を神道の理論による神様に改めたわけである。この時、牛頭天王は徹底的な弾圧を受け、それにより祇園社感神院は廃寺となった。この時八坂神社に改組され、スサノオノミコトを祭神とする神道の神社として生まれ変わった。


元へ戻ることは出来ない

ただし、神道と仏教を厳然と区別する法制度は、新政府の体制が固まると数年で神仏共同布教体制となる。無理な施策というものだったが、頓挫するのはいいが、元へ戻ることは出来ない。還俗して髪を蓄えた神官は神官として生きていくしかないだろう。建物や仏像の計り知れないは実害は??それまでのわが国には文化財という定義がなかったと言うのが定説だ。文化財は皆で守っていくべきものという今では普通の概念はこれがきっかけだということも定説になっている。京都編indexに戻る


蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫なり

疫神社

(写真註:祇園の西の楼門から入ったところにある。疫神社。説明ではこの神社に祀るのが蘇民将来尊(そみんしょうらいのみこと)とある。)

備後国風土記の逸話。兄は貧しく弟は富む。ある夜旅の武塔神(むとうしん)に弟(巨旦将来・こたんしょうらい)は惜しんで宿を貸さず、貧しいながら宿を貸してもてなしたのは兄の蘇民将来(そみんしょうらい)。後に巡りて八人の王子を連れた武塔神、富貴なる弟の一族をことごとく滅ぼす。ただ一人蘇民将来の娘、弟の家に嫁いでいるが無塔神のいうとおり腰に茅の輪(ちのわ)をつけたるによって難を免れる。武塔神いわくわれはスサノオなり。後の世に病気あらば、汝、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を腰につけておれば免れる″と。概要を路地風に訳せば以上の通り。これが祇園祭の茅まき撒き″のいわれ。


祇園祭の粽(ちまき)は食えない

武塔神も蘇民将来も何に由来した神か不明らしい。平安時代から各地で信仰の対象となっていた。牛頭天王(スサノオ)信仰にはこの蘇民将来という護符が配られる。祇園祭りでは「蘇民将来之子孫也」と書いた厄除け粽″が昔は山鉾の上から撒いていた。粽は茅(ちがや)まき″であり、茅とはイネ科のカヤ(ススキ)のことである。水に強いことから茅葺(かやぶき)、や菅笠(すげがさ)などにも用いられる。茅の輪くぐりの茅である。端午の節句の粽は笹などでくるんだお餅である。もともと茅でくるんでいたとも言うが、祇園祭の粽は正に茅巻″であっておもちなど入っていない。厄除けのお守りです。という一節のために長く語りました。京都編indexに戻る


いもぼうの味比べ

平野家

(写真註:平野家本家/少し離れて平野家本店がある、予約するときには2軒あることを知っておかないとだめですよ)

神社の外、知恩院側に“いもぼう”がある。里芋(さといも)と俸鱈(ぼうだら)の炊き合わせた料理だ。略して芋棒(いもぼう)という。平野家(ひらのや)というのがこの“いもぼう”の商標で昔から有名だ。今は京名物の料理として食わせてくれる。いもぼうという普通名詞を商標として京都名物というには、ちょっと文人が手を貸した気配がある。平野家というのだが、あれ、本店と本家がそれぞれ営業していた。平野家本店・本家両方案内します。いずれも300年の経営を誇りにしている。あなた自身の舌で試してみたら。棒だら、里芋というたら庶民のおせちの定番。私は自分の家の“いもぼう”で十分です。→*知恩院*平野家本店*平野家本家


海老芋はサトイモ

平野家本店

(写真註:平野家本店/知恩院側にあるのが平野家本店ののれん。どちらの写真も掲載させていただきます)

サトイモとは南方アジアのタロイモなどと同じ系統。大きな葉に大きな茎の親芋に沢山の小芋がつく。“いもぼう”の芋は少し湾曲した小芋、海老芋(えびいも)″と言われる種類。平野家の大先祖(青蓮院門跡の料理人と言われる)が江戸時代半ばに長崎の土産のこの芋の栽培を託されたというわけだから、それから確かに300年以上相当の歴史があるわけだ。煮崩れしないなど優れた風味を持つ芋で以後京野菜として京都の食の文化に大貢献してきた。↓続く


小芋(こいも)と芋茎(ずいき)

小芋(こいも)とはオモダカ目サトイモ科サトイモ属のサトイモのこと、その芋を言う。種芋を植えて子芋を増やして食用とした。サトイモは水と日当たりを好む。縄文時代に我が国に伝わって以来栽培されてきた。主食に近い野菜である。ズイキイモとも言うし、またその葉柄をズイキと言う。ズイキも生または干したものが惣菜に利用されるともにおかーちゃんの味である。野菜としては根菜でもあるし、葉茎菜でもある。雨も好むせいかサトイモの葉は蓮の葉と同じような水玉の撥水(はっすい)効果(ロータス効果)がある。その一種がエビイモ″である。エビイモは京芋とも言われる。サトイモは出荷量で20位くらいの野菜である。京都府下、大阪近郊などでも栽培されるが静岡県の磐田市地方が生産量の8割を超えるとある。京都は必ずしも小芋の栽培の適地ではないのかもしれない。京都編indexに戻る


祇園石段下

四条通の真正面に八坂さんの石段と朱塗りの山門が京都の四条の繁華街の景色を作っている。昔も四条大橋から八坂さんの石段下は京都最大の門前町。石段下の交差点を祇園石段下″と言っていた。ここから見る楼門はやはり八坂神社というより祇園社という雰囲気。この景色のなまめかしさは牛頭天王の空気。昔から市民はこちらの方に馴染みを感じていたと思う。今もよくよく見れば神社の入り口を表す鳥居がない。四条通から見るのが祇園社。


二軒茶屋の一軒

二軒茶屋

(写真註:鳥居の右側の店が中村楼/祗園発祥の豆腐茶屋。向かいの藤屋とともに祇園社の門前で豆腐茶屋を開いた。祇園のお茶屋のご本尊みたいな立場。ただし、二軒茶屋の一軒は今はない。そのせいか、残念ながら庶民が入れる店ではない・・

八坂神社の正面鳥居の右に井戸の跡あり。空也上人ゆかりという。明治の初め祇園社の頃まではここに藤屋という茶店があったという。反対側にも茶店があってこちら今も営業していて京料理の料亭中村楼という。今でも二軒茶屋と言う。茶店から豆腐料理を始めて京都の料理屋の元祖みたいな立場にある。正面鳥居の中、楼門の前です。正面の東山通りの方にはそんな店無い?!そちらは西楼門です。八坂神社の正面は南の門、東大谷の参道から入る南楼門が八坂神社の正面です。拝殿にまっすぐ向かってます。ただ、鳥居がいつから立ったのかは私は知り得ない。このあたり祇園花街(かがい)の発祥であることは何となく理解できる。古典落語に「大丸屋騒動」言うのがあって、江戸時代には多くの芸妓が二軒茶屋に集まっていた。今は一軒だけど、余談。 *二軒茶屋


花街とは色町である

四条大橋

(写真註:今の四条大橋/四条大橋東詰(写真では右側)が南座、奥へ行けば祗園町、さらに右に下がれば宮川町。逆に西詰は先斗町、阪急河原町駅に。老いも若きも京都一の歓楽街。小生の若いころはこの写真の正面あたりに京阪電鉄の四条駅と大きな踏切があった)

こうして祇園社の門前に広がっていったのが豆腐料理。いつかはこれが京料理になっていく、という下りはいまさら勉強の機会が無い。茶店が祇園や先斗町(ぽんとちょう)の料理屋に進化していくのは間違いなく遊びという文化と密接にかかわってこそのことである。それが社会風俗というものであり、祈りも信仰も遊びも歓楽も別のものだ思ったのでは謎は解けないと思う。その中で色と食いの文化というのは特に不可欠なもの。色町文化が食を求めているという面を忘れてはならない。花街(かがい)とは色町でありそれぞれの教養(費用)に応じた遊び方を用意できることが最低限の条件である。というのが私の持論。


京料理はお茶屋でいただくもの

時代劇で、お茶屋といえば、「色茶屋」のこと。待合茶屋、待合または茶屋とも言うが男女の密会などに利用しやすい仕組みになっている。これを京の花街(かがい)では「お茶屋」という。お茶屋とは芸妓(げいぎ・芸子のこと)を呼んで食事が出来る店のこと。ただ、料理は仕出し屋、料理屋などから取り寄せるので自分のところでは出さない。芸者を呼んでいただく料理はお茶屋でいただくもの。お茶屋は業態としてはあくまでも貸し座敷。貸席業でありしたがって風俗営業になる。待合茶屋と言うのも大体同じような貸席業である。同じ茶屋でも水茶屋というのは茶店のこと。お茶屋と料理屋とは別のもの。料理屋も料亭などを自称することもあり、料亭に芸妓を呼ぶことも出来るがそのときもお茶屋を通し花代もお茶屋に支払うのがルールである。


お茶屋の役割は客の見定めである

祇園のお茶屋

(写真註:祇園のお茶屋/お茶屋にはお茶屋という鑑札がある。料理屋ではない)

お茶屋遊びは少々高くつく。芸者は接客のプロ。食事だって必ず時間何ぼで支払わなくてはならない。これだってお茶屋を通さなければならない。信用取引だから一見さんはお断りの世界。仮にではあるが間違って直接呼び込みなどされてはこちらが困る。お茶屋のシステムは信用取引ともいえるが、危険分散とも言えるような気がする。芸妓は置屋(おきや・やかたとも)に所属して置屋からお茶屋に派遣される。置屋(やかた)の女将は芸妓の躾とに責任を持ち身元を預かる、お茶屋は置屋や料理屋への支払いを保証する。その担保が客の見定めである。料金は保険料も相当込みかもしれない。お茶屋さんがクレジットカードみたいなもの、今はクレジットカードの方が安全ともいえる。が・・・、この危険分散の形は、あちらこちらの世界(?)でもそのまま通用している。


一見さんお断りの効用

それはさておき、小ぶりな料理屋は小料理屋や割烹など言う。こちらは現金払いのつもりなのに京都はそれでも入りにくい。会員制の他に、中には堂々と「一見さんお断り」の札がかかってる。さる親しいお店での話。「だんさんもお客様。これからもお客さんになって欲しい・・と。お支払いもしっかりして欲しいと思いますけど、うちは料理は決して高いことも安いこともおへん。敷居ばっかり高おして商売は出来しまへん。そのかわり金さえ払ろたらええやろ″とだけは思わんでおくれやす。しやから一見さんお断り″と書いてますねん。」この上げ下げがおかみさんの得意技。その上に・・「京都は金さえ貰たらええ店も一見さんお断り″と書いてますから、気ィつけておくれやす」とも。この断定と曖昧さのどっちも京都。ともかく料理と値段が釣り合ってるところはちょっとくらい取られても納得??クレジットカードで払いました。


出雲の阿国(おくに)、現る

関ヶ原の戦(1600)がすんで明らかに徳川の天下が見えだしたころに、この伏見街道の五条大橋橋詰に突然現れたのが出雲の阿国。異風なる男の真似をして現れたわけである。男装の麗人は体の線がいいこと。臀部は観音様のサマであり、二足直立歩行はそれ自体が美であるということを気付かせるものだった。胸は乙女の如く腰は母の如し。桃山文化の極みだと・・阿国のことも長く調べている中世文化史の京都人宮川女史の弁である。いずれにしろエロチックな踊りであったとされるが、さもあろう。芸能とはそういうものである。以後、北野天神社の歓楽街にそれから四条宮川町の河原に。辺りには当時数か所の芝居小屋があったと言われる。都はいつも前衛的のものが好まれる。


出雲の阿国舞う

この頃の芸能はまだ能(のう)が原型。能をベースにした歌謡ショーのみたいなもの。京都国立博物館に「出雲歌舞伎図(国宝)」なるものが残っていて、そのことを知ることが出来る。都の人貴人から全ての階層の人が阿国を見ている。出し物は茶屋遊び″という。茶屋も当時の流行(はやり)である。男髷(おとこまげ)に覆面姿から、髷も結わずに刀を担ぐスタイルに進化して描かれている。男装を除けば桃山時代の雰囲気・風俗そのものであった。それは確実に桃山時代の風俗文化が成熟しきっているときの絵であると言う。↓続く/→京都国立博物館


秀吉が見物している?

南北朝時代からのばさら″が下克上の社会をつくり、戦国時代に突入しやがて時代の終わらせる最大の異端児(傾(かぶ)きもの)信長が現れ、秀吉が豪快に舞ったような傾く(かぶく)という精神現象は大坂夏の陣(慶長20年・1615)で幕となる。最後の傾き者(かぶきもの)が真田雪村であったのかもしれない。阿国が北野に現れたのは慶長8年(1603)、家康が京都で征夷大将軍の宣下を受けた年である。江戸幕府が開かれても京の北野で舞う阿国の姿はまだ都が京であり、大坂に秀頼がいた頃の話である。この図屏風が描かれたのも2代将軍秀忠の時代であると言われるが、その図屏風にはあり得ない筈の豊臣秀吉が描かれていると言う。数年も前に亡くなった秀吉が阿国歌舞伎を見物しているような図屏風が何故描かれたのか、また果たして誰が絵師に依頼したかと言うのは我々にも興味を引く話である。↓続く


出雲の阿国(おくに)、江戸に下る

10年ほど京都にいた阿国歌舞劇団は徳川体制の固まりつつある江戸へ向かう。庶民に歓楽的な芸能というものを知らしめた結果になる。遊女歌舞伎と言われ全国に広がる気配を見せたが、徳川体制では官能的な女性の芝居は許されなくなっていく。徳川の体制は徳川の家の体質に合った江戸(まだ新都心としての)文化つくりに専念していく。それが100年近い年月をかけて元禄文化になるのだが、そのときはもう阿国の艶めかしい女歌舞伎とはまるっきり違うものになっていく。バサラやカブキモノとは違って、粋(いき)″の文化の江戸という都を作っていくことになる。↓続く


不良の星

今は一言で阿国は歌舞伎の始まりだと言うが、歌舞伎はその後、徳川体制の中で制約を受け、傾く(かぶく)とは違った方向に進化していった。強固な体制の中で作られ出来てくるのはどうしても形式の整った安心できる美しさであり、決して不良の美であってはならない。それが社会風俗。阿国は一気に時代の到達点を見せてしまった感がある。宮川女史によると桃山時代の絢爛(けんらんな)な文化の中でも阿国は100年の歴史の中でやっと現れる星だと言う。強烈に光る不良の星がしかも桃山期の最後に現れた。体制を一人でひっくり返してやろうとするぐらいの不良である真田幸村と同じだと言う。それほどの阿国でありながら、江戸へ行ってその後いつか消息は不明となる。燃え尽きた星であったらいいのだが・・・四条の橋のたもとに麗人阿国の像がある。 京都編indexに戻る


京のおばんざい

有名豆腐屋の店先で豆腐をかじっている旅行者に出くわす。豆腐豆腐というけれど、気の利いた豆腐はあっても特別な豆腐は無い筈。そこまで驚かなくてもいいような気がする。1丁200円もすれば御の字。どこそこに限らず寒くなれば湯豆腐など毎日やし、芋棒もただの家庭料理。家庭では、いい出し″と新鮮な野菜、豆、時に海のものや鳥、後は豆腐と油揚げ、みんな近所で手に入るもの。これにちょっとの工夫と作ってくれる人がおればおかず″は出来る。どちらか言えば内陸型食材が特徴である。それを特別に京のおばんざい″と丁寧に言うてくれる人もいる。おばんざいとは京都風のいい音ではあるがどちらかと言うと最近の造語である。突っ込んだ研究する人に言わせるとおばんざいのばん″は番茶と同じ番であるという。ストレートに言うと最下級と言う意味だとすら言う。↓続く

 

家庭料理

京都にないものがある。実は″おふくろの味″である。そういうと驚く人がいるが、実は京都にはおふくろ"がいないからである。京都や大阪で育った人で母親のことをおふくろと呼ぶ人は今だ知らない。母親はおかー″でありおかーさん″である。それ以外にも色々あるが、たとえば花柳界・路地の家でも全ておかーちゃん″といえば、本当に親であろうとなかろうと最高の親愛の情の表現である。おふくろ″という言葉が存在しないんだから「おふくろの味」はないわけである。ならば・・、それはただの家庭料理である。↓続く


料亭料理も家庭料理である

世界中の料理は大きく分ければ宮廷料理と家庭料理に区別される。その上であえて細分すると、家庭料理は料亭の料理、仕出し屋の料理、商家の料理、庶民の料理などに細分される。何百年も公家も庶民も日常は家庭料理である。それを表現する適切な言葉が存在しない。だからおばんざい″やおまわり″などという言葉を引っ張り出さなければならない。庶民の料理だって、粗末ながら工夫を凝らした数百年のレシピが確立されているわけである。料亭の料理も家庭料理である。神様に供えたり、やんごとなき行事に出される料理以外は皆家庭料理である。↓続く


おかーちゃんの味

エビイモ

(写真註:エビイモはサトイモの小芋(こいも)である。エビイモのことはいもぼうの項で書いた。参照されたし。サトイモは昔から庶民の栄養源でもある。)

その伝統の味は今や仕出し屋や惣菜屋にしか残ってないともいえる。料理の出来はプロが上だとは限らないもの。しかし、おばんざいやおふくろの味などという名前へのこだわりは素人料理の上に自信のなさを表現している。家庭料理は立派な料理でせっかく京都に来たのなら一流の料理人(おかーちゃんも含む)の家庭料理を味わってほしい。料亭でなくともいい料理人が多くいるのが京都なんです。そうでなければせめて商店街をはしごしていい食材を使ったお惣菜店を見つけて京都のおかずを味わって欲しい。そうなんです、ただのおかずなんです。炊いたん″煮たん″です。旅行者が街中でおばんざいの看板の店を探して並んで食事をするのは勝手だけど、・・おふくろの味のつもりでおばんざいの店なんて言ってるのにひかかれば、それでは京都旅行の目的を果たしたことにならないのを心配してます。京都編indexに戻る


悪縁切り

切りたくなった時に切れないのが悪縁。東大谷、高台寺を西に下った安井の金比羅さんはもっぱら“悪縁切り”を売りにしていた。アベックが知らずに参ったあとすぐに別れることになったと言う苦情が来る(?)くらいの効き目あり。このごろは「悪縁を切り良縁を結ぶ」と書いてある。せっかくのご利益、「悪縁切り」パワー一本で行ったほうがいいような気がする。そんな平凡なご利益では他にも多い。悪縁は良縁の成れの果て、また悪縁の種を作っているようで頼りないと思ってやったりもするのだが・・。隣は昔からの安井のホテル街。・・蛇足ながら申し上げました。↓続く/→*安井の金比羅さん


結ぶということは

正しく言うと、縁は早い目に「結ぶ」ということ。「結ぶ」ということはほどきやすくということだと言っていた。そういうことか、ほどけなくなったものが悪縁。ほどけなくなったら切るしかないという訳です。切ればそのロープは二度と使えません。そんなことロープワークの本には当たり前のように書いてある。神社の元の祭神は崇徳上皇、怨念の神様です。この神社にすがる人も多い。悪縁切りはもはや怨念、良縁はともかくとしてこれだけはきいてやってほしいと思ったりする。七夕の日に悪縁切りを祈願するのが下の絵馬。京都編indexに戻る


みそそぎ川

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写真左の川がみそそぎ川

四条大橋の下を流れるのは鴨川。もちろん正解であるが、もう一本の川が流れている。「みそそぎ川」という。西岸先斗町(ぽんとちょう)側に、夏の納涼床が跨いでいる川と言えば分かりやすい。加茂大橋の下流で鴨川から取水し、鴨川の河川敷を本流に並行して五条大橋の手前で鴨川に帰る流れだ。これを高瀬川と間違う人が多い。高瀬川は鴨川の一本西の流れ、運河だ。みそそぎ川は二条あたりから始まるその高瀬川に水を注ぎ込んでいる。それからは段差を経て三条〜四条を川床の川としてゆったり流れる。鴨川本流は災害のたびに掘り下げられていった経緯がある。特に昭和10年の鴨川大洪水の後、本川がそのときからまだ2メートル掘り下げられたという。従前の鴨川の機能を残す必要もあったことを思えば、このみそそぎ川の水面の高さが昔の鴨川のに近いことが理解できる。


高瀬川

工事中


新町通(しんまちどおり)

京都の通り、交差点は普通東西の通名と南北通名と組み合わせて言う。たとえば四条河原町(しじょうかわまち)とか四条烏丸(しじょうからすま)とか言う。四条烏丸より西へ四条室町(しじょうむろまち)・四条新町(しじょうしんまち)という簡略通称で京都の人は分かる。新町通は京の街中、南北の通り、概ね今出川通から七条・京都駅横塩小路の中央郵便局まで一方通行で細くとも一本で筋が通っている。京都府庁・府警本部の東の通り、東本願寺の西の通りになる。平安京の通りで言えば町小路(まちこうじ)にあたる位置である。西洞院大路(にしのとういんおおじ)の一つ東の通りになる。平安京の左京のほぼ真ん中になる。この通り、織田・豊臣の時代に新町通と言われるようになった。その後二条から五条くらいまで江戸時代の京都の町衆の中心的な通りであった・・・ことを前段として紹介しておく。↓続く


新町通はメインストリート

新町通を散策すると気が付くことがある。一つは、この通りすぐ西の通り(西洞院通)や、東の通り(室町通や烏丸通)にも比較してして地盤が高くなっていること。江戸期の新町通りは大店(おおだな)や土蔵が並んでいたと言われるとそういうことかと気付く。鴨川が氾濫しても新町通の付近は浸からないですむということだ。不動産価値が極めて高いというわけで継続的な大きな資本力がなければ店を構えられないというわけだ。上京と下京を貫くメインストリートの役割を果たし江戸期の京都経済を支えてきたわけ・・。この通りは二条新町は二条町、三条新町は三条町、六角新町は六角町、四条新町は四条町・・というように東西通りの名が町名になっている。通り名を独占している。


新町通は山鉾(やまほこ)の街

新町通や室町通には京都の産業・繊維業の問屋などが並んでいた。それは多くの職人がいたということでもあり、それは町衆が元気で、街が優美で元気だということでもある。今でもこの通りを中心に祇園祭の山や鉾が保存されていることも気付ける。もう一つ気付くことは山鉾の街である。新町通りは路地ではないが一方通行の小路である。少し他と違うのを気付くとしたら、それは道を横切る電線・電話線がないことだ。スッキリしてるとまでは言い難いが、それは山鉾の街であり山鉾が通行出来る道であるということでもある。各町内の背の高い鉾は新町通に出てきて新町通から各町内へ帰っていく。現在の山鉾の街は辛うじて町衆の力が辛うじて明治まで続いた町だと思えば、江戸期を越えてきた京都という都市を解く一つのキーになる。写真は日常の新町通り。↓続く


四条町

新町通はメインストリートの項の例で四条新町を下った辺りが四条町となる。今年度から概ね150年ぶりに巡行に復活参加するのが◇大船鉾、平成26年(2014)7月20日四条町・新町通の路上に姿を現わした。新町通には北から◇八幡山(はちまんやま/舁山(かきやま)/三条町)・◇北観音山(きたかんのんやま/曳山(ひきやま)/六角町)・◇南観音山(みなみかんのんやま/曳山/百足屋町(むかでやちょう))・○放下鉾(ほうかほこ/鉾(ほこ)/小結棚町(こむすびだなちょう))・○船鉾(ふねほこ/鉾/船鉾町)・○岩戸山(いわとやま/曳山/いわとやまちょう)に加わる。大船鉾の復活とともに前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)と分かれることともなった。↓続く

*注○印先祭◇印が後祭で巡行する/下の山鉾・花傘巡行図を参考にしてください(読売新聞の記事から切り抜き 、図では赤い山鉾が先祭、青が後祭である)


船鉾(ふねほこ)

船鉾の鷁首

(写真註:想像上の水鳥である。風を切って飛ぶために船首を飾る。龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)といって龍と鷁で一対をなす。

船鉾は鉾(ほこ)の仲間である。室町時代の中期には祗園御霊会の記録には二つの船形が存在していて一つは出陣(しゅつじん)の鉾もう一つは凱旋(がいせん)の船であった。ともにご神体は応神天皇になる御子を身ごもった神功皇后の朝鮮半島への出征の姿である。だから軍船である。他に住吉明神や鹿島明神の他、安曇磯空を従えあるいは守られている。海を渡るというのは大事業である。その船鉾の船首にあるのが鷁(げき)である。珍しく益扁(えきへん)の字である。先祭と後祭に再度分かれて(1914)て、昔に帰って船鉾(出陣の鉾)が先祭の殿(しんがり)、大船鉾が後祭の殿と順番が決まっている。安産の神として眺める人も多い。→*公益法人財団法人祗園祭船鉾保存会//↓続


後祭(あとまつり)

後の祭り(あとのまつり)という言葉があるが、祭りが終わった後のことを言う。祇園祭の後祭(あとまつり)″というのは、お旅所に留まっていた3基の神輿が八坂さんまで戻る還幸祭(かんこうさい)の先触れとして巡行する。錦小路より北の9つの山鉾と四条町の大船鉾合わせて10基が24日の午前に巡行する。御池通から河原町通そして四条通の新町まで北から南へ前祭(さきまつり)と逆に回ることになる。いわゆる祇園祭の山鉾巡行は今年度から17日と24日の2度に分かれて行うこととなったと・・49年ぶりに元の形に戻ったと言うこと。今までの形では人出が多すぎると言うのも理由らしい。後祭では露天も出ずその風情を戻したい意向もあるようだが果たして疫病退散を願う市民の祭の原点にどこまで戻れるかだと思う。去年のままではどうしようもないものもあった・・。


都市の祭

祭の客

(写真註:巡行以外は町内に止まっている。ご神体を拝んだりするために鉾に上がる。二階家の窓から桟橋を架けて渡る形が多い。観光客も参加できる一瞬である。先祭は宵まつりがにぎあう。国際フエスティバルである。鉾町は信仰を考える間もなく喧騒の中でゴミの山になって巡行の日を迎える。)

「語源」と言うのは話題づくりを目的にしたものが多い。祭の後(あとのまつり)″では間違いなく見物に遅れたことになる。後の祭″というのは、祇園祭のこの後祭(あとまつり)″のことを言うという説もある。見物に行っても賑やかさがない″という語感を言っている。50年前17日合同巡行に至った一番の理由がそういうこと(後祭は先祭に比して寂しい)であったと言われると、なんとなく語源としての説得力があるように思える。寂しいということは収入が少ないということでもある。50年前も信仰か観光か″の議論を経て後祭の巡行がなくなったということらしい。今も祭りか観光か″の議論かもしれない。が、京都の祭りか観光客の祭りか″と言い変えれば議論の原点が理解出来そうな気がする。いずれにしろ現状を変えるということは勇気・英断を必要とする。「都市の祭ですから・・」と山鉾連合会の理事長は言う。町衆″の見識を支持したい。京都編indexに戻る


四条大船鉾の復活

大船鉾/クリックで新切流はがき絵が見れます

京都駅前のヨドバシカメラのビル一階に展示されている四条大船鉾の屋形が完成したとの新聞ニュース。平成26年の祇園祭(7月24日)の殿(しんがり)をつとめる。というのも大船鉾は幕末蛤(はまぐり)御門の変(1864年)に焼けて150年ぶりの復活。今年から前の祭りと後の祭りの二部構成となる機会に。後の祭りの飾るのは昔のとおり神功皇后(じんぐうこうごう)凱旋(がいせん)の大船鉾でないと・・ということらしい。屋形が完成して何とか・・。路地住人鰺も友の会に入っている。→四条町大船鉾保存会


神功皇后の凱旋

四条大船鉾は四条町(新町通四条下ル)所属。ご神体は神功皇后のご神面。この大船鉾は戦いに勝った神功皇后の凱旋の様子である。日本書紀などによれば神功皇后はヤマトタケルノミコトの子の14代仲哀天皇の后にして名はオキナガタラシヒメノミコト。臨月を迎えながら新羅・高句麗・百済に遠征。筑紫へ凱旋の後、15代となる応神天皇を生む。母・子ともに八幡宮の祭神として祀られる事となる。「船鉾」は出陣の様子。大船鉾は凱旋の様子にて鎧を着ていない。


神功皇后の鮎占い

祇園祭の神功皇后は「占出山」にもある。これは神功皇后が出陣の前に鮎を釣って戦勝を占ったという姿を山にしている。大津市の大津祭りの曳山に「神功皇后山」という曳山がある。これによると出征の途上肥前の北松浦の鮎つり岩で戦勝を占うためにまっすぐの針で鮎を吊り上げたときの説話に基づくとある。ここも安産祈願のところとなっている。筑紫であったり肥前であったりするがどうも九州の香りがきつい。海で鮎を釣ったとしたらおかしいけれど、魚ヘンに占う″と書いて鮎と読む。↓続く


おきながたらしひめ

神功皇后の遠征

(写真註:)

ただ、神功皇后の存在ももちろん新羅に向かっ史実もない。日本書紀の時代をそれなりに西暦に直すと日本尊命(やまとたけるのみこと)の子、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は192〜200、おきながたらしひめこと神功皇后(じんぐうこうごうは)は201〜269、その皇子応神天皇(おうじんてんのう)は270〜310となっている。仲哀天皇の皇子が父の死後まだ110年生きたことになる。神功皇后の生きた時代は歴史年表的に言うと、実は卑弥呼(ひみこ)の時代に重なるのである。7世紀には白村江(はくすきえ、と言ってきたがはくそんこう″ともいうようだ)の戦いがあった。その時斉明天皇(さいめいてんのう・655-661/ただし皇極天皇の重祚・女帝)が筑紫まで赴いたことがあり、それと類似のことが多い。大和朝廷の女帝の姿が重なり合っているのだと思う。だからこその神格化である。京都編indexに戻る


大宮駅は土木遺産

今の阪急大宮駅

(写真註:今の大宮駅/左奥に行く道が後院通・珍しく千本通と大宮通を斜めに結ぶ元市電道)

四条通の地下を走るのが阪急電車、昭和38年に河原町駅まで延伸されるまでは京都の終着駅だったのが今の阪急大宮駅。西院駅から大宮駅までの地下線路は昭和6年に開通。近畿地方最初の地下線路であり、2000年選定の土木遺産(土木学会)として認定されている。大宮駅は四条大宮、四条通と大宮通(実際は後院通)との交差点である。繁華街としての地位は烏丸駅・河原町駅に譲ったもの、今も京福電鉄嵐山線や京都市内各方面のバスの乗換駅としての性格が強い。京都市の東西南北の地形的に中心に位置する。余談ながら特別な店構えではないが餃子の王将の1号店が駅前にある。京都編indexに戻る//→*阪急電車*土木遺産(土木学会)*京福電鉄*餃子の王将


大宮駅は京阪京都駅

新京阪電車P-6形

(註:新京阪電車として走り出したP-6形。阪急電車の100形となって長いこと走っていた。)

昭和3年に大阪の天六から今の西院まで走らせたのは京阪電鉄系の新京阪電鉄。その後京阪電鉄に吸収され昭和6年に今の大宮駅まで延伸された。開業の時の大宮駅は「京阪京都駅」と言った。昭和18年に京阪電鉄と阪急系が合併京阪神急行電鉄となるが、戦後昭和49年に京阪神急行電鉄から京阪電鉄が分離。しかしながら京阪が作った新京阪線は京阪神急行に残り、これが今の阪急京都線となっているわけである。大宮までは京阪電鉄、大宮から河原町までの地下線路は阪急電鉄の仕事。京都編indexに戻る


節分おばけ

四条大宮から西へバス停一つ、少し南へ下ると壬生寺(みぶでら)がある。節分の行事で有名である。節分とは年の変わり目、厳密には旧暦の大晦日とは重ならないが1年の終わりの日である。と言うことは方角の神様が移動する日である。歳徳神という女神も移動する。この引っ越しの間に悪鬼が現れる。この間、こちらも仮想して悪鬼に捕まらないようにするというのが「節分おばけ」と言う。起源など詳しいことは路地子(ろじこ)は知らない。そんな風習も今は花街の余興にしか残っていない。が、もともとは民間でもあった風習。と言うことでその復活を図っている人たちもいる。節分の日に壬生寺周辺や四条大宮あたりでちょいちょい出くわすことがある。バスも電車も注意。応援してやりたければ驚かずに驚いてやるのがいい。→壬生寺/→*島原の司太夫が代表を務める「こったいの会」京都編indexに戻る


山城の国葛野郡(かどのぐん)

松尾大社

(写真註:松尾大社の鳥居/下がっているのは榊(さかき)12束ある「脇勧請(わきかんじょう)」というとある)

四条通を西に行くと三菱自動車の工場の前を通って桂川まで。ここに架かる橋松尾橋を渡ると松尾大社(まつのおたいしゃ)の鳥居に達す。極めて古い神社で、このあたり一帯の住民が松尾山を祀ったのが始まりだと、また朝鮮半島から渡ってきた渡来人の豪族秦(はた)氏の氏神として社を築造したとある。都が来たのはその後のこと、桓武天皇の延暦3年(784)長岡京遷都、続いて延暦13年(794)平安京遷都はこの秦氏の開いた土地と富の力によるとされる。秦氏というのは応神天皇(400年頃)の時代に朝鮮半島から海を渡って来た大民族。新羅系の氏族で豊前(ぶぜん)の国から、大和・山城・丹波・河内・摂津などの各地に定着。本拠としたのが山城(当時は山背)の国葛野郡。桂川流域、嵯峨(さが)・太秦(うずまさ)の地。この地に平安京の歴史が始まったわけである。↓続く


松尾大社(まつのおたいしゃ)

松尾大社

(写真註:松尾大社の本殿・ご神体は後ろに見える松尾山にある。

松尾大社(二十二社のうち上七社・旧官幣大社)の祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)。古事記によるとスサノオノミコトの子・大年神(としがみ)と天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)の子。比叡山の山の神で日吉大社(大津市)やこの松尾大社の祭神である。名前の通り山の神であり、農耕・治水を司る。松尾大社のご神体は神の座る磐座(いわくら)である。磐座とは大岩のことである。日本に古くからある自然崇拝の形を残しており、神の居るところを注連縄(しめなわ)で囲い神殿を建てたのが松尾社である。ご神体は松尾の山である。山王(さんのう)と称されるのはこの大山咋神だということだ。↓続く

大山咋神(おおやまくいのかみ)

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秦氏(はたし)

秦氏は開拓技術に優れ桂川の水利土木技術で農業や養蚕、機織、酒造など中国大陸の文明技術を持っていた。松尾社(まつのおしゃ)や伏見の稲荷社(いなり)を氏神とし、広隆寺(推古11年、603)をも建てた。政治的にも京都派朝廷とのかかわりは極めて密接であり、それが平城京から平安京への遷都という大事業を支えた。秦氏の山城での文化が、平安京の中で磨かれ普及し日本の文化の基(もと)となった。多くの京都の地の人のルーツであるだけでなく、日本人の血のルーツにも深く関わっている。一説によれば当時の日本現住民の2倍もの色んな民族が弥生期の日本列島に渡来したともある。古代史が好きな人にとってはまだ多くの興味深い謎がある。が、古代史の謎の楽しい薀蓄は他の人に譲るとする。↓続く


土地を得て開墾することが富につながる

日本の農業は弥生時代に稲作が始まって飛躍的に進展する。生産は自らの消費のためだがやがて蓄積となり貨幣制度が発展するとそれが富の差となる。渡来人の大集団秦氏は桂川に堰を作り流域の田畑に水を配り、村落に定着していった。その時代に大規模耕地整理の技術がすでにあった。そこは渡来人の文化だった。この地に都が出来てもそのままの形がそれから続くことになる。むしろ、それが都の経営を支えていたと思うべきである。支配する権力か多くの富を持てば水利技術もなお活用できる。言い換えればそれから日本全国、土地を得て開墾することが富につながるという稲作農業を本とした国土経営の形が出来た。その後時代がいくら変わろうとも、政権がいくら変わろうと米作高による富(土地の支配)を基本として日本人の意識が生まれてきたのだと思う。↓続く


稲作の技術と精神文化は古代のままです

農耕技術だけでなく養蚕・機織りでも同じである。確かに今は機械化によって生産性は上がってはいるが、文化としては渡来人たちによって開墾され、教わった技術そのままの形だと気付く。水を張った田に苗を筋のように植えてのち水を切らさない・・・田植え一つ、平安京が出来た当時のままなんです。ご神田のお田植え祭の通り、変ったのは機械、例えば化学肥料など、品種の改良など関係技術は進歩したが、稲作の技術と精神文化は古代のままです。稲作に頼る文化と米を主食とする文化は日本の全ての文化の土台になっているのだと思う。それは、日本人の持つ宗教感の本(もと)にもなっている筈である。それからの日本人というのは渡来人と完全に同化していったからである。↓続く


日本の土木は葛野大堰(かどのおおい)に始まる

(写真註:写真は現在の葛野大堰「一の井堰」、すぐ下流に渡月橋がある。堰によって京都の街中の少ない水辺を作っている。もっと活用すべきである。このあたりは大堰川(おおいがわ)という)

いきなり水利というのはありえない。農作だけのことを考えて欲しいだけの水を欲しいときに欲しいだけ得ることが出来ればそれに越したことはないが、自然を相手にそんなことが叶うはずがない。天候と川の水は元々制御の外のこと。そこに技術と言うものが必要。技術的に言えば不必要な洪水は出来るだけ影響少なく速やかに下って欲しい。稲作文化が氾濫の無いところに育ったことはない。大きく言えば氾濫の無いところに文明が育ったことがない。稲作にしろ治水しろその技術は都、言い換えれば都市を構築する技術だったのだと思う。京都の大土木工事は、秦氏の最初の葛野大堰(かどのおおい)から始まり、桓武天皇による都城建設を大舞台とし、豊臣政権の京都大改造につながっていく。利水と治水の歴史でもある。土木と言うのは都市になるための技術である。京都編indexに戻る




角大師(つのだいし)→★粟田口

川魚店→★錦小路通(にしきこうじとうり)

おかーちゃんの味→★京のおばんざい

船鉾→★新町通はメインストリート

四条大船鉾→★神功皇后の凱旋

大宮駅は土木遺産→★大宮駅は京阪電車京都駅

出くわし注意→★節分おばけ

京都には楠氏の遺跡は残らなかった→★楠正成と非理法権天

京都の難儀→★足利将軍

京都の難儀→★応仁の乱

改めて京都の難儀→★自由都市京都

織田信長の入京→★織田信長の入京

信長の最後→★本能寺

料亭の料理も家庭料理→★京のおばんざいって何?

平安京のいしずえ→★山城の国葛野郡(かどのぐん)


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